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日本人奴隷の行き先

よしをです。

1990年、日本で出入国管理及び難民認定法の改正により、

多くの南米出身の日系人が来日するようになり、

日本に定住する日系ブラジル人は、2008年には30万人に達しました。

かれらは明治時代以降、

日本からブラジルなど、南米へ渡った移民の子孫ですが、

400年以上前に、南米に日本人が渡ったことはあまり知られていません。

 

1596年、日本人の青年が奴隷としてアルゼンチンに売られました。

アルゼンチンのコルドバ歴史公文書館で発見された記録に記述があったもので、

そこには、「日本人、フランシスコ・ハポン、戦利品(捕虜)、担保・人頭税なしの奴隷を800ベソで売る」と書かれていました。

「フランシスコ・ハポン」というのは、「日本人のフランシスコ」という意味で、

そのように呼ばれていたのでしょう。

本名はわかっていません。

青年は「自分は奴隷として売買されるいわれはない」として、

自由を訴え、裁判を起こして勝訴、自由の身になったとあります。

 

日本では、16~17世紀の戦乱によって、多数の難民や捕虜が生まれ、

その一部が、ポルトガルの奴隷船に乗せられて海外に売られていきました。

悪辣なのはイエズス会で、宣教師は、積極的に日本人女性を奴隷として集め、

ヨーロッパに送っていました。

とても宗教者の振る舞いとは思えない所業ですが、

かれらは東洋人など対等な人間だとは思っていなかったのです。

 

中南米への奴隷船の渡航ルートとしては、

フィリピンのマニラからメキシコへの太平洋横断航路が開かれていました。

1580年代に、支倉常長を頭とした伊達藩の慶長遣欧使使節団が、

ローマに向かう道中いたるところで、

日本人奴隷を多く目撃して驚愕したという話も残っています。

 

豊臣秀吉が慧眼だったのは、

宣教師の活動の危険を見抜いたことでした。

主君の信長にも注意を促し、その後、徳川幕府鎖国政策を採用して、

スペインやポルトガルとの関係を断ち、

オランダのみと交易を続けました。

オランダはプロテスタント国であり、奴隷政策とは無縁だったからです。

 

戦国時代を通じて、日本人の子女数十万人が、

奴隷として世界中に売られていきました。

もし豊臣秀吉や独川家康のような強大な支配者がいなければ、

日本は、スペインやポルトガルに浸食され、

アフリカでおこなわれたような、

白人による奴隷狩りがおこなわれたかもしれません。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。