呂布
よしをです。
三国時代、武勇絶倫の名を欲しいままにし、戦乱を駆け巡った呂布は、
数多い三国志の英雄のなかでも異彩を放っています。
呂布の人生は、裏切りの連続でした。
袁術に身を寄せますが、裏切って逃亡し、
袁紹に与力して、兵力1万の黒山賊を手勢の数十騎で打ち破りました。
その後、呂布は独立勢力を築いて、
1年以上にわたって曹操と激戦を繰り広げて破れると、
放浪の果てにたどり着いたのが、劉備が治める徐州でした。
呂布は、劉備の出陣中に城を奪うと、劉備は曹操と組んで反撃に転じました。
劣勢に立たされた呂布は籠城の末、ついに降伏しました。
絞首刑により、生涯を終えました。
生年も不詳につき、死んだ年齢もわかっていません。
かれは、五原(現在の中華人民共和国モンゴル自治区)生まれの、
騎馬民族出身なのです。
記録には出てきませんが、中原(中国の中心)周辺には、
チベット、ツングース、ペルシアなどの多彩な異民族がいました。
秦、前漢時代に中原の北方を脅かしていたのが、
匈奴(モンゴル系など諸説あり)でした。
統一国家を築いた匈奴は、やがて南北に分裂し、勢力が衰えると、
モンゴル系(あるいはトルコ系)の鮮卑が頭角を現してきました。
弱肉強食の遊牧民社会において、裏切りは日常茶飯事でした。
親兄弟や親戚でも、妨げとあれば殺しても当然であり、
その反面、圧倒的な強者には従うというのが、草原を生き抜くための知恵です。
呂布の行動には、遊牧民の性質が色濃く反映しているといえるでしょう。
戦いで得た領土であっても、簡単に手放してしまうし、
自分と同じ、五原出身の兵しか信用していませんでした。
ほかの英雄たちのように、漢王朝を復興するとか、天下を統一するといった、
明確な目標や志をもたず、刹那的に現在の欲求に従うまま、
ひたすら戦いに明け暮れ、裏切りを繰り返していました。
呂布の無軌道な行動は、諸将にとって認めがたいものでした。
それは、かれの出自からくるものとして、侮蔑の対象でもあったでしょう。
かれは常に孤独であり、他者から理解されることがありませんでした。
「水滸伝」には、小温侯の異名をもつ、呂方という豪傑が登場します。
鎧や戦服を赤一色に統一し、赤い馬を駆って方天画戟を手にして活躍します。
「温侯」とは呂布が授かった地位であり、
方天画戟というのは、まさに呂布の得意の武器です。
呂方は、いわば呂布二世といった存在であり、
呂布に憧れていたことを表しています。
嫌われ者の呂布でしたが、少しは救われるようにも思います。
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