人間・孔子
よしをです。
孔子(孔丘)は、紀元前552年頃に魯(中国山東省)で生まれました。
貧しい母子家庭にあって、14歳で学問を志し、17歳で孤児となり、
27歳から魯の下役人として倉庫番や牛馬の世話係をしながら、
礼学を修めました。
魯国にクーデターがおきると出国し、諸国を転々としたのちに、
50代で祖国の魯の大司寇(裁判官)に仕官しますが、数年で辞職し、
その後は弟子たちとともに、ふたたび諸国を放浪して就職先を探しますが、
希望は叶わず、郷里で私塾を開いて弟子の教育をおこないました。
孔子の私塾には、最大で3000人の弟子がいたといわれています。
孔子は身長が216センチもある巨体で、「長人」と呼ばれ、
その容姿は、上半身は長く、下半身が短く、
背中は曲がり、耳は後ろのほうについていた(荘子)とされています。
さぞや、目立ったことでしょう。
孔子とは関係ありませんが、
わたしは昔、人混みの駅のターミナルで、ジャイアント馬場さんを見たことがあり、
200メートル先でも、それが馬場さんであることがわかりました(笑)。
没後、神格化がすすみ、超人化されていくのですが、
儒学の著作は、すべて後年、弟子が編纂したものであり、
孔子自身は、体系立った哲学を確立したわけではありません。
孔子は、宮廷儀礼や葬礼や祭儀に関する作法のエキスパートを称して、
諸国を回って就職活動をしていました。
自分自身の就職活動はうまくいかなかったのですが、
弟子のなかには、ちゃっかり役人に採用される者も出てきました。
孔子は、弟子にも嫉妬を隠さず、
役人になった弟子の帰宅が遅くなると、強く叱責し、
自らが認められないことに愚痴をこぼしたという逸話も伝わっています。
また、「礼で大切なことは、形式ではなく精神である」と教えながら、
「最近の礼の形式は、なっていない」と弟子を叱ったり、
荒くれ者に説法をしに出向いたところ、逆に論破されて逃げ帰り、
弟子が、ある国の領主に他国への戦争を進言すると、
周囲が驚くほど動揺して、慌てて弟子を止めるなど、
論語の「四十にして惑わず」が霞んでしまうほどの、
情けないエピソードも伝わっています。
孔子の評価されるべき最大の主張は、非暴力主義です。
論語を読むと、ところどころで矛盾に突き当たることも少なくないのですが、
非暴力主義の主張の徹底は、首尾一貫しています。
孔子もひとりの人間に過ぎず、
決して、聖人君主ではなかったかもしれませんが、
「世の中の為」を実践したことが、
孔子があれほど多くの人を集めた理由なのでしょう。
今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。