さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

起業とか資格とか。趣味や思い出話など いろいろランダムに

鮭の殿様

よしをです。

出羽の国の大名・最上義光

伊達政宗の伯父にあたる人物で、最上家を繁栄させた名君です。

もともと最上家は羽州探題の斯波家の系統であり、

清和源氏の流れを汲む名門ですが、義光の二代前の時代に領地を失い、

伊達家の与力として保護されていました。

義光の父である最上義守が、伊達家の内乱に乗じて独立を果たしています。

 

最上義光は秀でて長身(一説に身の丈6尺)であり、武勇に優れ、

度量の大きい人物だったといわれています。

義光が目指したのは、

村上の国衆(天童、寒河江、上山、白鳥氏ら)を支配下に置くことでした。

織田信長に書状をおくって、村上の当主を僭称する白鳥十郎を、

山形城に呼び出して暗殺するなど、

戦国武将ならではの荒事もやっていますが、

敵対する相手に、義光は総じて寛容でした。

投降した国衆のなかには、鮭延秀綱という名将がいました。

鮭延らの国衆を与力に加えて、村上地方を平定した義光は、

さらに、敵対する大宝寺氏の内乱に乗じて、庄内地方を征服しました。

 

最上義光は人情に厚いことで知られていました。

国衆である由利一族の大井五郎という男が横暴だとして、

討ち果たすように頼まれると、

五郎を、居城の山形城に呼び寄せましたが、

5~6人前の食事を平らげる五郎の豪壮ぶりに感銘して、

暗殺計画を打ち明け、

褒美をとらせて帰らせたというエピソードが伝わっています。

 

また、義光が伊達政宗に嫁いだ妹の義姫を溺愛していたことが、

残された手紙のやりとりによって、垣間見ることができます。

最上と伊達との抗争が勃発した際には、

義姫が取りなしのために山形に訪れ、

義光の幼い子ども(駒姫か?)が義姫に戯れたのを見て、

義光は涙を流したと伝えられています。

 

最上義光の娘・駒姫が豊臣秀次に見初められて側室となりました。

秀次が謀反の疑いをかけられた際、義光は助命嘆願しますが、

受け入れられず、秀次は切腹し、一族全員が処刑されました。

駒姫もまた連座して処刑されたことで、義光の悲嘆は重く、

義光の正室も、ショックで自殺してしまいました。

この事件によって、

義光の秀吉への憎悪は、決定的なものになったといわれています。

 

義光は関ケ原では東軍に与し、以後は領内の繁栄に尽力しました。

日本海の要衝である酒田港の整備をおこない、最上川の難所を開削し、

治水工事を推進して庄内平野の農業生産力を向上させました。

海運とともに、街道を拡張して流通を整備し、

城下町である山形の町の商業を殖産しました。

義光存命中は、領内で一揆はほとんど起こらず、

領民に対して寛容な殿さまであると、領外にも知られていました。

 

義光の晩年、嫡男の義康が暗殺されるという事件が起こりました。

原因はわかっていません。

「親子の仲がよくないので和解したい」と記した、

義康の遺品の手紙を読んで、義光は号泣していたといわれています。

次男の家親が家督を継ぎますが、さらに最上家に悲劇が襲いました。

義光の没後、家親が急死すると、家内で後継者をめぐる内紛が発生し、

最上家は改易されてしまったのです。

 

最上義光には「鮭様」という異名があります。

読んで字のごとく、鮭が大好物で、領内で鮭が獲れると大喜びし、

徳川家康への贈り物や、伊達政宗の手紙の返礼や家臣への下贈として、

塩鮭を贈るなど、最上義光の贈答品といえば、鮭と決まっていました。

 

もっとも、山形県史によれば、最上義光は、鮭のほかにも、

鯛やクジラを好んだという記述もあり、

単にグルメな殿さまだったのかもしれません。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。