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熊野信仰と八咫烏

よしをです。

 

神道は、自然信仰、御霊信仰、農耕信仰の、

3つの系統から成立するとされています。

 

山や海、巨木や奇岩などの自然物を対象にする、

「自然信仰」は、

狩猟や漁労を生業とする人びとの、

縄文時代からの原始的な宗教、

一族や祖先の霊魂を対象とする、「御霊信仰」は、

朝鮮半島などから渡来した、弥生人の信仰、

大地や農耕の神を信仰する、稲作を起源とする「農耕信仰」は、

稲作が伝来した、中国南部から台湾、琉球を経由して

伝えられた信仰、

これらが集合して、神道になったとされています。

 

2004年、ユネスコ世界遺産に、

紀伊山地の令嬢と参詣道」が登録されました。

いわゆる熊野古道です。

 

熊野信仰の中心は、熊野三山であり、

熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那須大社の、

3つの神社から成り立っています。

現在は、熊野三山は一体としてとらえられていますが、

元来は、それぞれルーツの異なる、自然信仰の三山でした。

そこに、御霊信仰流入し、

本宮をスサノヲ、速玉をイザナギ那智イザナミとし、

三山を一体化させていきました。

 

やがて、神仏が合体し、

平安時代の中期に記された、「大日本国法華経験記」には、

何人もの僧侶が、熊野山中で修業をし、

数々の超常体験をしたことが、記録されており、

この時代には、

熊野が霊場として確立していたことがうかがわれます。

 

神武天皇は、日向から畿内を目指して東征の途に出ましたが、

当初、西から難波に攻め入って敗れました。

そこで、神武天皇は、

自分は、太陽神である、天照大神の子孫なのだから、

西から東ではなく、東から西へすすむべきとして、

紀伊半島を大きく迂回して、

新宮付近から、吉野に向かいました。

このとき、神武天皇を、

熊野の山中から、大和の橿原まで案内したとされているのが、

三本足のカラス、八咫烏(やたがらす)です。

 

八咫烏は、熊野三山に仕えるシンボルとして、信仰を集め、

戦前から、大日本帝国軍の記章に、意匠が採用されています。

神武東征の功労者である八咫烏は、

「必勝の使い」として、定着していました。

 

八咫烏は、昭和6年(1931年)から、

日本サッカー協会のシンボルマークにも、採用されています。

蹴鞠の名人であった、藤原成通は、50回以上も熊野詣をして、

蹴鞠の上達を祈願した、というエピソードが残っています。

 

これが、サッカー協会に八咫烏が採用された理由かどうかは、

定かではありませんが、

日本サッカー協会は、

ワールドカップなど、国際大会出場の折には、

熊野三山を詣でて、必勝祈願をおこなっているといいます。

 

今の若い人にすれば、

八咫烏は、「勝利の女神」的な、

可愛らしいマスコットにすぎないでしょうが、

戦前までは、まさしく戦争に勝利するという意味が込められた、

帝国主義のシンボルであったことも、

知っておくべきだと思います。

 

韓国は、日本の旭日旗に対して難癖をつけるのであれば、

八咫烏の意匠についても、文句を言うべきだと思います。

いらぬお世話ですが(苦笑)。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。