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大飢饉と上杉鷹山

よしをです。

 

 

江戸時代は全期を通じて寒冷な気候であったといわれていて、

幾度か飢饉や不作が起こっています。

なかでも、三大飢饉といわれる大飢饉の際には、

東北を中心に、多数の農民が餓死したという記録が残っています。

なかでも、江戸時代最大規模の飢饉が、天明の大飢饉です。

日本全国で、推定2万人が餓死したと、杉田玄白が伝えています。

餓死とともに、疫病も流行し、

1780年から6年間で、全国で100万人の死者がでました。

 

大変不思議なことに、

これらの大飢饉の年においては、たしかにコメは不作でしたが、

まったく収穫できないわけではありませんでした。

東北では多数の餓死者が出たにもかかわらず、

江戸など都市部では、餓死者は一切出ていないのです。

 

江戸時代も中期を過ぎた頃、

貨幣経済の波が、ようやく東北にも伝わりましたが、

貨幣経済に不慣れな東北の各藩は、

すぐに商人からの借金でがんじがらめにされてしまいました。

藩内にコメがなくなってしまった理由は、

収穫されたコメのうち、そのほとんどすべてが、

消費地(江戸や大坂など)に送られて現金化され、

商人への借金返済に充てられたためなのです。

たとえば、天明の大飢饉の年、弘前藩は、

江戸に40万俵のコメを売ったといわれています。

 

つまり、大飢饉の惨劇は、東北の各藩の失政が原因だったのです。

ほとんどの東北各藩は、無策により、人民の生活が疲弊しましたが、

唯一、米沢藩だけは、異彩を放っていました。

 

藩の財政がひっ迫するなか、

米沢藩の中興の祖、上杉鷹山は、

財政構造改革と産業振興策に、着手しました。

鷹山は、虚飾の廃止、人員整理や徹底した緊縮財政をすすめました。

そして、コメに依存する産業構造を変革すべく、

藩内に漆の木を100万本植樹する計画を立てました。

漆から蝋(ろう)をつくって大阪で販売し、現金収入を得る計画でしたが、

残念ながら、この計画の矢先、蝋の市場は、九州の諸藩が生産する、

安価なハゼ蝋が主流になってしまい、計画は破綻してしまいました。

 

そのような不運に加えて、

藩内では、改革を阻む守旧勢力の不穏な動きがあるなど、

苦しい藩政運営に追い込まれましたが、

鷹山の藩政への情熱は変わることなく、

その信念と不屈の実行力により、

度重なる大飢饉で多数の犠牲者を出しながらも、

20年間の執政により、

ついには、破綻寸前の米沢藩の財政を立て直すことに成功しました。

 

鷹山が家督を譲る際に残した「伝国の辞」には、このように語られています。

 

一、国家は先祖より候国家にして我私すべきものにはこれ無く候

二、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候

三、国家人民の為に立たる国家人民にはこれ無く候

 

また、「伝国の辞」と同じく、伝えられた有名な言葉に、

「為せば成る 為さねばならぬ成る業を 成らぬと捨つる人のはかなさ」

があります。

 

トップの決断力と信念によって、多くの大衆の命を救った、

上杉鷹山の功績は、現代に生きる政治家も、

ぜひお手本にしてもらいたいと考えています。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。