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中曽根康弘の話

よしをです。
中曽根康弘氏が、11月29日に101歳で亡くなりました。
通称、大勲位
若手議員のころは、青年将校と呼ばれ、
やがて、三角大福中の一角を占めますが、
小派閥を率いて、有力派閥への与力を左右したことから、
政界風見鶏などと揶揄されました。
世代交代がおこなわれて、ついには主流派となり、
1982年に内閣総理大臣に就任します。
総理大臣時代には、学習指導要綱を改定し、国鉄民営化を成し、
アメリカのロナルド・レーガン大統領との関係強化につとめました。

長く政権を保ったことと、
アメリカとの関係を強めたことは、評価に値しますが、
それにともなう、不沈空母発言は軽率であり、
タカ派的傾向が全面に出すぎて、
念願の憲法改正が果たせなかったことは残念でした。
個人的には、政治信念を欠く、風見鶏の印象が強く、
以前は、あまり尊敬に値しない政治家だと考えていました。

1965年に公開された、映画「兵隊やくざ」は、
勝新太郎を主演にして、大ヒット作品となりました。
その後、勝新を主役に、続編が次々とつくられて、
合計9作品を数える、シリーズ映画になりました。

第一作の内容は、このようなものです。
勝新が演じる、主人公・大宮二等兵が、満州の部隊に配属されました。
大宮の指導係に指名されたのが、
田村高廣が演じる、インテリ上等兵・有田でした。
大宮は、やくざの用心棒をしていた男で、
新兵であるにも関わらず、我が道を行く傲慢さで、
古参兵の顰蹙を買って、トラブルを起こすのですが、
ある事件をきっかけに、有田と意気投合します。
その後も、部隊内で、さまざま事件が発生し、
大宮は営倉送りになるなど、やくざの本領を発揮します。

かれらが所属する部隊が、前線に送られることになりました。
大宮は、いまこそ有田に恩返しするときだとし、
前線へ向かう部隊を乗せた列車から、客車を切り離しました。
そして、有田と大宮の2人だけを乗せた機関車は、
満州の地を、どこまでも走っていくのです。

若き中曽根康弘は、海軍主計中尉として入隊し、
輸送船・台東丸で、ほかの輸送船とともに、船団を組んで、
呉からフィリピンに向けて、出港しました。
台東丸には、多くの刑余者が乗船していて、不穏な空気が漂っていました。
中曽根少尉は、乗員を掌握するために、一計を案じ、
なかでも、一番強そうな、親分肌の男を選んで班長にしました。
これが古田という男で、前科8犯のヤクザ者でした。
中曽根中尉は、甲板に座り込み、
「古田よ、これまで随分、天皇陛下にご迷惑をかけたな。いよいよ戦争が始まるが、お前、おれの子分にならんか。おれも上州は国定忠治の血を受けた人間だ」、
と語りかけると、
古田上等兵は、「へい、なりやす」、と答えました。
中曽根中尉が、酒を持って来させて、茶碗に入れて出すと、
古田は、「それは親分から先に飲むんでござんす」。
「そうか」、と中曽根中尉が一口飲んで渡すと、古田は全部飲み干し、
任侠の契りを結びました。

船団は、ミンダナオ島に上陸し、
ボルネオ島のバリクパパンに向けて出港しますが、
その途中、米軍機の爆撃を受け、輸送船の多くが撃沈されました。
台東丸も、多くの乗船員を失いました。
古田班長も砲弾を浴び、
「隊長(中曽根氏)、すまねえ」と言い残して、息を引き取りました。

戦死した仲間たちの遺体は、バリクパパンの海岸で荼毘に付されました。
中曽根氏は、バリクパパンの記憶を俳句に残しています。

友を焼く 鉄板を担ぐ 夏の浜
夏の海 敬礼の列の 足に来ぬ

わたしは、中曽根氏が従軍したことは知っていたのですが、
どうせ、帝大卒のいけ好かない青年将校だろうと想像していました。
かれは、任侠からは、ほど遠い人物だと考えていたので、
このエピソードは、意外に感じたものでした。


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。