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西欧の陶磁器

よしをです。
西欧への陶磁器の伝播には、大きくふたつの流れがあります。
ひとつは、現在のイランを起点とするペルシア陶器で、
もうひとつは、中国磁器です。
ペルシア陶器は、イスラム帝国の拡大とともに東西に広がり、
西欧へは、エジプト、モロッコから地中海を渡り、ポルトガルに伝わりました。
一方、中国磁器は、
西欧へは、シルクロード経由で、かなり遅れて到達しました。
当時のヨーロッパには、磁器は存在せず、
白く、光を通す磁器は、東洋の神秘とされ、憧れの宝物でした。

大航海時代に、東インド会社から明の中国磁器が大量に輸入され、
ヨーロッパ各国では、
さかんに中国磁器の「写し(コピー)」がつくられました。
明が衰退して輸出が滞り、日本の伊万里焼(有田焼)が輸入されると、
オランダのデルフトでは、「柿右衛門写し」などが作陶され、
ジャポニズムとしてもてはやされました。

これらの「写し」は、磁器ではなく、不透明な白い釉薬をかけた陶器でした。
ザクセン王国アウグスト2世は、
錬金術師のヨハン・フリードリヒ・ベトガーに、磁器の開発を命じました。
ベトガーは、領内で磁器の原料であるカオリンを見つけ、
試行錯誤ののち、ついに白い磁器(マイセン)の開発に成功しました。

少し遅れて、イギリスでは、骨灰をつかった軟質磁器が開発されました。
軟質磁器は、硬質磁器よりも透光性にすぐれ、
絵付けが容易であるという特質をもっていました。
この磁器は、英国王室の庇護を受けて発展し、
ボーンチャイナ」という名前がつけられました。

陶磁器の本歌(オリジナル)に倣ってコピーすることは、
世界各国でおこなわれています。
たとえば、高麗青磁は、景徳鎮の青磁の写しであり、
ベトナムにも、景徳鎮を模した安南青磁があります。
日本でも、古くは、京で焼かれた唐物写しや、
李朝の粉青沙器を写した唐津焼、安南(ベトナム)写しなどがあり、
ノリタケボーンチャイナも、イギリス磁器の本歌写しです。

磁器の作陶技術は、最新技術であり、利権の塊でした。
日本においては、
朝鮮出兵によって、九州諸藩の軍が朝鮮陶工を多数拉致し、
肥前や薩摩など、各地で、国産の磁器を開発させました。
一方、マイセン磁器を発明したベトガーは、
西欧における磁器製法の独占を目論んだアウグスト王によって、
マイセンのアルブレヒト城に幽閉されました。
研究によって有毒物質を吸入し続けたベトガーは、
やがて視力を失い、アルコールに溺れ、37歳で死去しています。


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