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楽観論を述べる勇気

よしをです。
世の中には、多くの未来予想がありますが、
容易に予測できるものと、予測が難しいものに分類されます。

将来の人口予想は、戦争や大規模災害などの変数がなければ、
過去の死亡率や出生率から、かなり正確な数値を導き出すことができます。
その一方で、新技術の普及率など、過去のデータがないケースは、
仮説の前提として、何を変数要因として重視するかによって、
予想の方向は大きく変わり、
要するに、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」になってしまいます。

未来予想は、楽観論と悲観論に分類することもできます。
悲観論は、科学的な根拠に基づいていると思いきや、
実際には、最悪のシナリオを避けたいという、
情緒的な願いに由来していることが多いのです。
それらしいデータが並べてあっても、
それが実現不可能なぐらいに過大に評価されているなど、
多くの悲観論の根底には、
あえて最悪のケースを導き出すための恣意的な操作がされています。

そういう種類の悲観論は、最悪のシナリオを明示することで、
最悪な方向にすすまないようにという警鐘を鳴らし、
自然とそういう力が、社会全体に働くことを期待しているのだと、
考えざるを得ません。
これでは、科学的な予想ではなく、願望になってしまいます。

マスコミは悲観的な予想を好みます。
それは視聴者や読者が、必要な刺激としてそれを望んでいるからです。
評論家やコメンテーターも、楽観論よりも悲観論を述べたがります。
楽観論を述べるよりも、あれこれリスクを並べて問題定義する方が、
頭がよく見えますし、
悲観論をいっておけば、予想が外れた場合も、なぜか非難されません。
かりに予想が当たれば、
「そら、わたしの言った通り」とアピールできるわけですから、
かれらは何も損をしないのです。

厚生労働省クラスター対策班の西浦博教授(北海道大学)は、
4月15日の記者会見で、国内における武漢肺炎の流行予測について、
「人と人との接触を8割減らさないと、42万人が死亡する」という、
ショッキングな予想をしました。
しかし、現時点においても、国内の死亡者は1000人に満たず、
西浦教授の予想は大外れしそうな様相です。

ここで、ひとまず、「予想が当たらなくてよかった」と、胸をなでおろすのも、
いかがなものかと思います。
人との接触が8割減ったという実績がないにも関わらず、
これほどまでに被害予想が外れたことについては、
予想が外れたことに胸をなでおろして放置するのではなく、
厳しく問題視しなければならず、
その理由についても、とことん分析して公表するべきです。

もう誰も、オオカミ少年を求めていないのです。
外れた場合のリスクの覚悟のもと、楽観論を展開し、
なおかつ予想を的中させる骨のある専門家はいないものかと、
考えてしまう、今日この頃です。


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。