さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

起業とか資格とか。趣味や思い出話など いろいろランダムに

ほめ殺し

よしをです。

東京佐川急便の経営陣が、

暴力団に、巨額の資金を流出させた事件の動機解明の捜査のなかで、

政界スキャンダルが明るみになりました。

きっかけは、竹下登政権樹立のため、元自民党副総裁金丸信氏が、

右翼の街宣攻撃封じを暴力団稲川会に要請したといわれる、

いわゆる「竹下ほめ殺し事件」です。

 

中曽根政権末期、任期満了にともなう総選挙を控え、

自民党内では、宮沢喜一安倍晋太郎竹下登の3人が、

次期総裁の座を争っていました。

それに遡ること2年前、金丸、竹下は創政会を結成し、

田中派の分裂を画策して、角栄の逆鱗に触れましたが、

ほどなく角栄脳梗塞に倒れると、

創政会は経世会と名を変えて田中派を離脱すると、

竹下総理実現に向けて、着々と準備をすすめてきました。

 

竹下総理への地固めが順調にすすんでいたところに、

右翼団体の皇民党が立ちはだかりました。

 

「竹下先生は日本一、金儲けのうまい政治家です」。

「清廉、誠実の政治家、竹下登を新総理に」。

 

皇民党の街宣車は、大音量でスローガンを連呼しました。

かれらの論理は、

竹下登が育ての親ともいえる田中角栄を裏切ったことは不義であり、

平時ならまだしも、病に倒れて窮地にある親を見捨てて、

派閥をつくって出ていく行為は、人として許されないというものでした。

 

東京佐川急便の渡辺広康元社長の公判資料によると、

金丸氏ら数人の国会議員から、街宣車を止めたいという相談があり、

懇意にしていた稲川会の石井進会長に相談したところ、

ほどなく活動が止まったとあります。

公判では語られていませんが、

多額の和解金が発生したと考えるのが普通です。

 

渡辺元社長の証言には、

ほめ殺しの中止を申し入れた7人の自民党議員が登場しています。

金丸信小渕恵三、梶山清六、森喜朗浜田幸一、浦田勝、魚住汎英

公判後、浜田、浦田、魚住の3議員は、皇民党との接触も認めています。

 

新潟から裸一貫で東京に出てきた佐川清は、佐川急便を創立し、

ことあるごとに、同郷の田中角栄に目をかけられ、助けられてきました、

同じく新潟出身の渡辺広康は、渡辺運輸を設立しましたが、

佐川急便の東京進出にともない、

その系列に入り、東京佐川急便の社長に就任しました。

 

渡辺は佐川グループ内において、

創業者の佐川清に次ぐ、ナンバー2の実力者となりました。

佐川が田中角栄に傾倒するのと対抗するように、

渡辺は金丸信への接触を深め、

稲川会の石井進に食い込んでいきました。

のちに判明したところでは、

東京佐川急便は、稲川会系のフロント企業などに、

400億円もの融資や債務保証をおこなっていました。

佐川清暴力団との関係を深める渡辺の動きに、

脅威を感じていたといわれています。

 

バブル経済が崩壊し、東京佐川急便は経営が急速に悪化しました。

佐川清は粛清に転じ、

親会社の佐川急便は、社長の渡辺をはじめ、幹部全員を解雇し、

渡辺を特別背任の疑いで告訴しました。

 

東京佐川急便から5億円の献金を受けていた金丸信は、

政治資金規正法違反で略式起訴されました。

結局、公判に付されず、20万円の罰金で処理されましたが、

強烈な世論の反発を招き、議員辞職に追い込まれました。

渡辺が政界にばら撒いた裏金は、総額数百億円といわれていますが、

最後まで渡辺が口を割らなかったため、実態は解明できませんでした。

 

皇民党に接触し、「竹下ほめ殺し事件」を扇動した黒幕は、

佐川清だったという説があります。

田中角栄に心酔していた佐川清は、

角栄から派閥を奪った竹下登を許せませんでした。

運命のいたずらのように、

金丸信から依頼され、皇民党を止めるために稲川会を利用したのが、

佐川急便の獅子身中の虫である渡辺広康でした。

佐川清は、あまりに大きすぎる対価と引き換えに、

グループから渡辺広康を放逐することに成功したともいえます。

 

渡辺広康は、最高裁で懲役7年の実刑判決が確定した翌年に、

病没しています。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。