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すてまがり

よしをです。

関ケ原では、結局、最後まで島津軍は動きませんでした。

やがて、西軍の敗勢が決定的になり、

西軍は戦場の後方にある、北国街道に殺到しましたが、

退路はすでに大混雑で、初動が遅れた島津義弘率いる島津隊300は、

周囲を東軍に囲まれてしまいました。

戦場から逃れるためには、北国街道ではなく、

敵中を正面突破して、別のルートで離脱しなければなりません。

 

島津隊は敗走する小西行長、宇喜田秀家隊に鉄砲を向けて追い払うと、

軍の誇りである、十字の旗指物を捨て、徳川本陣に突撃しました。

そのまま南方の伊勢街道に進路を変えると、

徳川軍は、島津隊のあまりの大胆さに衝撃を受け、

しばらく、呆気にとられて見守っていたといわれています。

 

少し遅れて、本多忠勝、井伊直正、松平忠吉が組織する追撃隊が、

島津隊に向かいました。

島津隊は退路の途中、300の軍勢から、しんがりとして数人を座らせました。

かれらは、命中率をあげるために、胡坐を組んで火縄銃を構えて撃ち、

追走する敵兵が近づくと、槍や刀をとって、白兵戦で玉砕するまで戦いました。

かれらが全滅すると、

本隊は敗走しながら、また数人を座らせて敵を待ち受け、

やはり全員が斃れるまで、追討軍と立ち向かいます。

これを繰り返して、追討軍の進行を遅らせ、大将の義弘を逃す作戦です。

 

この玉砕作戦を、「捨て奸(すてまがり)」といい、

追討隊の本多忠勝は落馬し、松平忠吉や井伊直正は重傷を負っています。

島津隊の損害も大きく、島津豊久(義弘の甥)と、家老の長寿院盛淳は、

自ら「すてまがり」を志願し、戦死しました。

 

追討隊を振り切ったあと、

道中では、野盗による落ち武者狩りにも遭遇しましたが、

それらを返り討ちにして、島津隊は、ようやく大坂にたどり着きました。

島津義弘は、大阪湾からは海路、薩摩に向かいますが、

同じく西軍に与した立花宗茂の船団と、西宮沖で合流しています。

 

島津と立花は、九州の派遣を争う、かつての敵同士でした。

宗茂の家臣は、このチャンスに島津義弘を亡ぼすべしと進言しましたが、

宗茂は、「敗軍を討つのは武家の誉れにあらず」として、

自ら義弘の護衛を申し出ました。

立花宗茂の助力もあって、ようやく島津隊は薩摩への帰還が叶いましたが、

300の島津隊は、80人になっていました。

 

島津義弘は、あまりにも言葉の訛りが強いため、

西軍の諸将とコミュニケーションがとれず、

作戦会議では、孤立していたと伝えられています。

このことから、西軍の方針には不満をもっていて、

戦場では、戦うことなく動かなかったのだといわれています。

 

関ケ原での敗勢が明らかになって、

島津義弘は、一旦は、自害することを考えていたといいますが、

家臣の犠牲のもと、国元に帰還する道を選択しました。

このときの辛い経験が、DNAとなって後世に伝わり、倒幕に向かい、

明治維新につながったことを考えると、感慨深いものがあります。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。