読書が教えてくれたこと
よしをです。
勉強は大学入試でほとんどストップし、以来、真剣に学習することなく、
それまで培ってきた財産(教養)だけで、社会を生きてきたような気がします。
元来、読書が好きで、かなりの読書量をこなしてきました。
いわゆるハウツー本やビジネス読本には興味なく、
ノンフィクションや哲学や、好きな作家の本を読んできました。
(もし興味があれば、大西巨人の「神聖喜劇」、読んでみてください。少し長いですが)
わたしの読書は、教養の足しにはなっても、ビジネスでプラスになるような、
便利なツールではありませんでした。
でも、わたしはそれでよかったと思っています。
わたしが好きな作家たちは、小説の中で、社会の底辺にいるズルい弱者や悪人と、純粋な善人との関わりを綴っています。
自らの存在をかけ、それぞれの方法で、もがき苦しみながら
日々の糧をもとめて戦う姿は、悪人のそれは醜悪であり、善人のそれは美しい。
しかし、社会は、必ずしも正義や美醜を基準に成り立つわけではありません。
偶然や運に左右されながら、その結果、悪が勝利するというのも、
小説の世界だけではない、社会の一方の真理だと語っています。
(無論、ときには、偶然によって(!)、善人が勝利することもあります)。
わたしは悪を礼賛するものではなく、正しさこそが、社会を健全にするために、
必要なのだと確信しています。
また、あらゆる結果は、偶然によるものだから、努力する必要はなく、
ただ流れに任せればいいとも考えていません。
車谷やカフカも、「世の中には、理不尽なことがたくさんあるが、
悪魔的な生き方を肯定することは、人間でなくなることだ」と戒めているのです。
落語家の立川談志(故人)は、落語とは、「人間の業(ごう)の肯定」だと語っています。
社会の底辺にいる、弱くて、ズルい人間が、醜悪さを隠しもせず、
欲望につきすすむ姿、困っている人を見捨てる姿、
犯罪だとわかっていても、「そうせざるを得ない」人間の弱い姿を、
落語はそのストーリーのなかで語っているといいます。
談志とて、そういう愚かな人間の行為を是としているのではなく、
落語に登場する醜悪な人間たちの生き様を、「醜い」と感じる素養が
必要なのだと考えていたはずです。
これまでの人生のなかで、それこそいろんな醜悪な人間をみてきましたが、
わたしは、これからも、まっとうに生きていきたいと思います。
まだ、大人の会話が理解できない長男・Kにも、
成長にしたがって、人生訓を伝えたいと考えているところです。
今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。
(今回は少々堅苦しく、申し訳ありません)