さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

起業とか資格とか。趣味や思い出話など いろいろランダムに

読書が教えてくれたこと

よしをです。

 

勉強は大学入試でほとんどストップし、以来、真剣に学習することなく、

それまで培ってきた財産(教養)だけで、社会を生きてきたような気がします。

元来、読書が好きで、かなりの読書量をこなしてきました。

いわゆるハウツー本やビジネス読本には興味なく、

ノンフィクションや哲学や、好きな作家の本を読んできました。

好きな作家は、日本の作家では、大西巨人車谷長吉

海外ならカミュカフカなどです。

(もし興味があれば、大西巨人の「神聖喜劇」、読んでみてください。少し長いですが)

 

わたしの読書は、教養の足しにはなっても、ビジネスでプラスになるような、

便利なツールではありませんでした。

でも、わたしはそれでよかったと思っています。

 

わたしが好きな作家たちは、小説の中で、社会の底辺にいるズルい弱者や悪人と、純粋な善人との関わりを綴っています。

自らの存在をかけ、それぞれの方法で、もがき苦しみながら

日々の糧をもとめて戦う姿は、悪人のそれは醜悪であり、善人のそれは美しい。

しかし、社会は、必ずしも正義や美醜を基準に成り立つわけではありません。

偶然や運に左右されながら、その結果、悪が勝利するというのも、

小説の世界だけではない、社会の一方の真理だと語っています。

(無論、ときには、偶然によって(!)、善人が勝利することもあります)。

わたしは悪を礼賛するものではなく、正しさこそが、社会を健全にするために、

必要なのだと確信しています。

また、あらゆる結果は、偶然によるものだから、努力する必要はなく、

ただ流れに任せればいいとも考えていません。

車谷やカフカも、「世の中には、理不尽なことがたくさんあるが、

悪魔的な生き方を肯定することは、人間でなくなることだ」と戒めているのです。

 

落語家の立川談志(故人)は、落語とは、「人間の業(ごう)の肯定」だと語っています。

社会の底辺にいる、弱くて、ズルい人間が、醜悪さを隠しもせず、

欲望につきすすむ姿、困っている人を見捨てる姿、

犯罪だとわかっていても、「そうせざるを得ない」人間の弱い姿を、

落語はそのストーリーのなかで語っているといいます。

談志とて、そういう愚かな人間の行為を是としているのではなく、

落語に登場する醜悪な人間たちの生き様を、「醜い」と感じる素養が

必要なのだと考えていたはずです。

 

 

これまでの人生のなかで、それこそいろんな醜悪な人間をみてきましたが、

わたしは、これからも、まっとうに生きていきたいと思います。

まだ、大人の会話が理解できない長男・Kにも、

成長にしたがって、人生訓を伝えたいと考えているところです。

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。

(今回は少々堅苦しく、申し訳ありません)