さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

起業とか資格とか。趣味や思い出話など いろいろランダムに

左甚五郎は実在したか

よしをです。
左甚五郎は、「実在した」とも、「架空の人物」ともいわれますが、
かれの残したとされる作品は、全国に存在しています。
日光東照宮の「眠り猫」、上野東照宮の「昇龍・降龍」、
京都知恩院の鶯張りの長廊下や、「わすれ傘」が、
左甚五郎作の代表作として知られています。

甚五郎が、架空とされる理由は、
いわゆる左甚五郎作とされている作品の年代が、
安土桃山~江戸後期と、300年の幅をもっていることからです。
そのため、実際は、
すぐれた彫刻職人の代名詞にすぎないという説もあります。
刀鍛冶の「関の孫六」のようなものでしょうか。

かれが、実在したと仮定して、このような伝承があります。
甚五郎は、1594年に播磨国明石で、足利氏家臣の伊丹家に生まれ、
父親が早世したため、飛騨高山の叔父の家に預けられ、
のちに、京都の伏見禁裏大工、遊佐法橋与平次の弟子になります。
25歳のときに、甚五郎は江戸に行き、
将軍家の宮大工である甲良宗広の養子となって、宮大工として活躍し、
江戸城の改築にも関わったといいます。

この伝承によれば、甚五郎が活躍した時代は、
ちょうど、二代将軍秀忠から三代家光の時代であり、
東照宮知恩院などの彫刻の製作時期と一致しますから、
心情的には、かれは実在し、ほかの作品はともかく、
これらの代表作といえる作品は、左甚五郎作としていいと思います。

「左」の名については、左官という官位を賜ったからとか、
幼少期を過ごした「飛騨」が、「左」に転じた、あるいは左利きだった、
腕を妬まれて右腕を切り落とされたため、左手で彫刻をしたなど、
諸説あって興味深いものですが、
個人的には、左利き説を支持したいと思います。

甚五郎が、あまりに腕がよかったということで、
かれの作品にまつわる、怪奇現象(笑)も伝えられています。

秩父神社に祀られている、甚五郎作の「つなぎの龍」は、
夜な夜な抜け出し、田を荒らしているという話があるそうです。
龍が暴れたとされる翌朝には、
彫刻の下に、水たまりができているのだとか。

甚五郎は、落語の題材としても大人気です。
なぜか武骨物で、酒浸り、金欠で、
汚らしい身なりをしているというのが、噺に登場する甚五郎の定番です。

「ねずみ」は、甚五郎の彫った動物が、動き出す物語です。

甚五郎が、仙台の宿場で、「ねずみ屋」という、さびれた宿に泊まります。
宿の主が、もとは向かいにある大店の「虎屋」の主人だったのが、
騙されて店を取られたという内訳話を聞いた甚五郎が、
宿の屋号にちなんで、小さなネズミを彫って、宿を去りました。

甚五郎が彫ったネズミは、まるで生きているように動き回りました。
この噂を聞いて、客が殺到し、「ねずみ屋」は大繁盛します。
これを聞いた虎屋の主人は、仙台の巨匠・飯田丹下に虎を彫らせました。
虎屋が「ねずみ屋」のネズミを見下ろすように店に飾ると、
途端に、ネズミは動かなくなってしまいました。

しばらくして、甚五郎がふたたび「ねずみ屋」を訪れました。
ぴくりとも動かなくなったネズミに、
甚五郎が、
「なぜ、あんな出来損ないの虎に怯えるのか」、と尋ねると、
ネズミは、
「えっ? あれは虎だったんですか。てっきり猫かと思いました」。

干支にちなんで、一席ご紹介。


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。