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それなら万葉集は何語でも読める

よしをです。
言語は時代とともに、どんどん進化するものです。
たとえば、現代人が戦国時代にタイムスリップしたとすれば、
われわれは、相手の言葉は聞き取れることはできても、
おそらく、こちらの言葉は通じず、
もっと古く、奈良時代であれば、
会話によるコミュニケーションそのものが成立しないでしょう。

幸いにも、日本語は、
古事記日本書紀などに、その時代の言語の記録が残っているので、
古代語の姿を知ることができますが、
たとえば朝鮮語の場合、言語の姿を辿ることができるのは、
ハングルが導入された15世紀までで、
それ以前の資料は漢字表記されているため、読み方がわかりません。

古代の日本の書物が、朝鮮語で解読できるという趣旨の書物が、
いくつも刊行され、
なかには、数十万部のベストセラーになっているものもあります。
とくに有名なのは、万葉集朝鮮語で読めるという趣旨の本です。

小説や謎解きという趣旨であれば、読み物としては面白いのですが、
朝鮮語は、日本語と関係があるはずだという思い込みのもとに、
万葉集を編纂した大伴家持山上憶良は、朝鮮からの渡来人であり、
歌の大半は、半島からの渡来人の作だったなどのトンデモ話を、
本気で信じ込んでしまう人が多いのは困りものです。

たとえば、猫という動物の呼び名はキャットでも、シャでもよく、
日本語で、ねこと呼んでいるのは、たまたまの偶然に過ぎません。
その一方で、「アイ」は、日本語では愛ですが、英語ならEYEになる、
これも単なる偶然です。
したがって、ある言語の「アイ」が、愛でもEYEでも正しいという
解釈をしたとすれば、「こじつけ」にすぎません。

2つの言語を比較する場合、まず基本になるのは、
双方の言語を、時代に合わせて比較することです。
一連の万葉集ものの分析では、
古代朝鮮語とはまったく読み方が異なる現代韓国語と、
古代日本語の単語の読み方を比較しているのですから、
まるでお話になりません。

金田一晴彦氏も指摘していますが、
たまたま発音が似ている単語をつなぎ合わせて解釈するのなら、
万葉集は、古代朝鮮語だけでなく、英語でもフランスでも、
読める(書かれていた)ことになってしまいます。
このようにいうと身も蓋もありませんが、
そもそも、日本語で読めるものが、同時に外国語でも読めるなんて、
そんな偶然など、ありえないし、そんなことをする意味がありません。


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。