さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

起業とか資格とか。趣味や思い出話など いろいろランダムに

鄭和の遠征は悪夢に過ぎない

よしをです。
習近平国家主席の目標は、明時代の版図の回復です。
永楽帝の時代に、明の国威は最大に達しました。
北方では、満州女真族を服属させ、南はベトナムを征服しました。
永楽帝の野望は、陸上だけにとどまりませんでした。
東南アジアからインド洋まで、帝国の威信を拡大すべく、
鄭和に大艦隊を率いさせて、
東アフリカに達する大遠征を敢行し、多くの国と、朝貢関係を結びました。

鄭和は、雲南省出身のイスラム教徒で、
明が雲南を征服した時に、11歳で捕虜になり、
宦官にされたといわれています。
永楽帝に仕えて、帝室の内乱において功績を認められ、
艦隊の司令官に登用されました。

鄭和の艦隊は、いずれも、2万人以上の乗員を率いて、
合計7回におよぶ遠征をおこないました。
鄭和が、最初の航海でインドのカリカットに到達したのは、
バスコ・ダ・ガマが到達する90年以上も前のことでした。
以後、ほぼ休みなく、本国とのピストン運行をおこない、
遠征は、マラッカ王国南インドカリカット、イランのホルムズ、
アラビア半島のアデン、メッカから、
東アフリカのモガディシュ、マリンディに及びました。

鄭和は、宝船とよばれる、全長120メートルの巨艦の周囲に、
複数の小型船を配置した艦隊を、ひとつの単位とし、
複数の宝船による大艦隊を編成しました。
第1回遠征では、宝船62隻、随行船150隻からなる艦隊が編成され、
兵士27000人が乗員として乗り込みました。
宝船とは、文字通り、宝を乗せた船という意味ですが、
行きは、強力な火器と水兵を配置した軍船として機能し、
帰りは、各国からの朝貢品を満載して帰還しました。

東アフリカのマリンディからは、
土産として生きたキリンやライオン、シマウマなどが贈られました。
永楽帝が、キリンを見て驚いたという記録があります。
「キリン」とは、現地のソマリ語での呼び名でしたが、
たまたま、それが、中国語の「麒麟」と同音だったために、
現在でも、実在の動物のキリンと、想像上の動物である麒麟は、
同一視されるようになったというわけです。

千夜一夜物語のシンドバットは、鄭和をモデルにしたという説もあります。
鄭和は、1424年に亡くなったことはわかっていますが、
インドのコルカタで病没したという説と、
南京で亡くなったという2つの説があるそうです。

長らく、鄭和の存在は忘れられていましたが、
20世紀になってから、再評価されるようになりました。
鄧小平が、改革開放の先駆者として、鄭和を取り上げ、
鄭和の艦隊の船員が寄港地に残り、
東南アジアの華人のルーツになったとしています。
この評価の流れは、習近平にも引き継がれ、
「一帯一路」の構想にも引き継がれています。

鄭和の遠征は、鄧小平が絶賛するような、改革開放の哲学はなく、
明帝国の権威をアピールし、その強大な軍事力を背景に、
各国からの朝貢を受けることを目的にしたものでした。
インフラ建設のために、中国人を現地に大量に送り込んで、
最終的に搾取する。
「一帯一路」とて、目的は鄭和の遠征と同じようなものでしょう。


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。