さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

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アウンサンスーチーの限界

よしをです。

ミヤンマーの国家顧問にして、事実上の国家元首である、

アウンサンスーチーは、

長期間の軟禁状態に耐えて、非暴力主義を貫いて、ミヤンマーの民主化を導き、

1991年にはノーベル平和賞を贈られました。

そのアウンサンスーチーが、

イスラム少数民族ロヒンギャに対する非道な迫害に加担したとして、

非難にさらされています。

 

ミヤンマーの先住民の多くは、仏教徒ビルマ人(人口の70%)で、

ビルマ人以外の少数民族も加えると、

国内の仏教徒は、人口の90%以上を占めています。

仏教国といえるミヤンマーにあって、

イスラム教徒のロヒンギャは、推定人口200万人のマイノリティでした。

 

あらたな入植者と既存の住民とのトラブルは、

現在、アメリカで暴動に発展している黒人差別問題や、イスラエル問題など、

世界各地で散見することができます。

ドイツにおけるトルコ人労働者差別や、日本における在日朝鮮人問題なども、

その根源は、すべて同じ構造です。

 

ミヤンマーにおける仏教徒イスラム教徒の対立は、

労働力強化のため、南アジアからイスラム系の移民が入植した、

19世紀前半のイギリス統治下で始まりました。

その後、第二次大戦後、ビルマ連邦(当時)が独立してからも、

各地で散発的な宗教衝突が起こっていたのです。

2016年、ロヒンギャの過激派によるテロ行為をきっかけにして、

ミヤンマー国軍と仏教徒の過激な団体が報復攻撃を仕掛けると、

数千人のロヒンギャが虐殺によって死亡し、村々は焼き討ちに遭い、

70万人ともいわれる難民が、バングラデッシュに逃げました。

 

ミヤンマー政府は、ロヒンギャはミヤンマー国民ではなく、

バングラデシュからの不法移民であると認定しています。

その一方で、ロヒンギャバングラデシュでも不法移民とされ、

タイ、マレーシアでも難民として扱われておらず、

事実上の無国籍者として、漂流している状況なのです。

 

欧米メディアやNGO団体などが、この事件を問題視しました。

一斉にミヤンマー軍部や政府を非難し、

アウンサンスーチーは、ロヒンギャ迫害者として、

人権蹂躙の批判の矢面に立たされました。

 

アウンサンスーチーは神聖な存在ではありませんでした。

欧米のリベラリストは、

アウンサンスーチーを普遍的な人道主義者に祭り上げてしまい、

期待をしすぎていたのです。

現実のアウンサンスーチーは、世界恒久平和を唱えていたわけではなく、

人道主義者でもなく、ビルマ民族主義者の利益代表にすぎませんでした。

 

2019年12月、国際司法裁判所(ICJ)に出廷したアウンサンスーチーは、

ロヒンギャに対する虐殺の訴えに関して、

この問題は、そもそも、ロヒンギャ武装勢力のテロ行為に原因があるとして、

政府や国軍の正当性を強調しました。

また、同裁判所における、

ロヒンギャ住民への集団虐殺やレイプ、放火の証言については、

アウンサンスーチーからは、ひとことの言及もなかったのです。

 

彼女は、ノーベル平和賞には値しない人物でした。

 

 

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張飛の妻と2人の娘

よしをです。

三国志の英雄・張飛といえば、豪快無双の武将として知られ、

三国志演義には、

豪勇の士である反面、思慮が浅い酒乱として、やや滑稽に描かれ、

その容貌は「身長8尺、豹頭環眼、燕頷虎鬚」と描写されています。

 

主君の劉備、義兄の関羽とともに、戦国の野を駆け巡った張飛でしたが、

関羽の戦死ののち、弔い合戦への出陣の準備中に、

部下の張達、范疆によって暗殺されてしまうという、

あっけない最期を迎えます。

ある日、張飛の陣営から上奏文が届いたと聞くなり、

劉備は、「ああ、張飛が死んだ」と嘆いたといわれています。

劉備は日頃から、張飛軍紀に厳しすぎる態度を諫め、

「罰を与えた者を傍に置くな」と、

部下による造反や暗殺の可能性を示唆していましたが、

劉備の懸念は現実になってしまったのです。

 

張飛が暗殺された原因については、

正史(三国志)には詳しい記述がないので、よくわかりません。

三国志演義によれば、

張飛は張達と范疆に対して、「3日以内に全軍に白装束を用意しろ」と命じ、

準備ができないという申し入れに対して、

泥酔していた張飛は、2人を棒で殴ったうえ、

期日までに用意できなければ斬首すると伝えました。

追い詰められた2人によって寝込みを襲われ、

張飛はあっけなく命を落とすことになったと描写されています。

 

わたしは、張飛三国志演義で描写されているような粗暴な人物ではなく、

知勇兼備の武将だったと想像しています。

張飛は一兵卒ではなく、

実際に大軍を率いて、縦横無尽に戦いを繰り広げてきた将軍です。

部下に厳しいというのは、

別の見方をすれば、規律に厳格であった証拠ともいえます。

わたしは、実際の張飛は、緻密な軍略家であり、

三国志演義のイメージとは、まったく違う人物だったと思うのです。

 

張飛の正妻は夏侯氏といい、曹操の武将である夏侯淵の姪でした。

敵方の将軍の身内とどうやって知り合ったのかといえば、

正史には、劉備らが曹操に破れて流浪生活を送っていたころ、

張飛が山で薪を拾っているときに、夏侯氏を見初めて妻にした」

とあります。

要するに、張飛が一目ぼれをしたということのようで、

張飛は当時33歳、夏侯氏は13~15歳だったとされています。

 

夏侯氏張飛との間に2男2女の4人の子をなし、

2人の娘は、劉備の息子である蜀の2代目皇帝劉禅の妻になりました。

どういうことかといえば、

最初の娘が劉禅の妻(敬哀皇后)となり、若くして亡くなると、

2番目の娘も劉禅に嫁ぐことになったのです。

末娘は張皇后と呼ばれました。

 

蜀は魏の攻勢を受けて滅亡しました。

劉禅は降伏し、混乱の中、李昭儀という妾は自害しています。

劉禅は捕らえられて家族とともに洛陽に移送され、

のちに先祖代々の土地である幽州安楽県で安楽公に封じられました。

 

その後、劉禅の子の代になって、

内乱に巻き込まれて、劉氏は滅亡しています。

張皇后は洛陽までは劉禅に同行したという記録が残っていますが、

のちにいつ亡くなったかは記録がありません。

 

 

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見たことのない景色を書く

よしをです。

歌川広重出世作東海道五十三次」が描かれたのは1833年、

広重37歳のときでした。

その前年に京都に旅して構想を得たとされていますが、

実際には広重は旅行をしていないという説が有力です。

 

まず箱根の図には存在しない巨石がそびえ立っています。

天下の険をモチーフに、

芸術としてデフォルメされた姿としてみることもできますが、

箱根を越えると、さらに実態とは異なる景色が多くなっていきます。

傑作のひとつに数えられる蒲原(静岡県)の図は雪風景ですが、

温暖な静岡でこれほどの積雪があるとは考えられませんし、

終着の三条大橋では、石造りの脚柱をもつ巨大な橋を木製として描くなど、

細かな現実との違いを指摘されています。

 

最近の研究では、広重作「東海道五十三次」は、

司馬江漢の「東海土五十三次画帖」や「春波楼画譜」、

あるいは数人の合作である「東海道名所図会」を手本にした、

という説が有力です。

 

広重は江戸から京まで、司馬江漢は京から江戸までの構成になっていて、

前述の蒲原の雪景色など、いくつかの構図が共通しています。

(ただし司馬江漢作は雪景色ではない)。

また「東海道名所図会」でも、広重と江漢の構図は共通しています。

司馬江漢は1818年に亡くなっていて、

五十三次が刊行されたのは1833年ですから、時系列的には納得がいきます。

さらにいえば「東海道名所図会」が発行されたのが1797年で一番古く、

東海道名所図会」⇒江漢⇒広重の順に、

いくつかの宿景色の構図は模写され、参考にされた可能性が高まります。

つまり、司馬江漢作にも模索の可能性があるのです。

 

さらに江漢作には、

当時存在しないはずの顔料が使用されていたという指摘があり、

明治以降に作られた贋作の疑いがあるといいます。

その場合、司馬江漢作とされている「東海土五十三次画帖」は、

逆に広重の模写ということになるわけです。

 

広重は東海道以外にも、

近江八景」「木曽街道六拾九次」「京都名所之内」「浪花名所図会」など、

街道ものの作品を多く残しています。

すべて現地を訪問してデッサンしたとは考えられないので、

これらの作品も、別の作品の構図を参考にしたとか、

あるいは旅行に行った人からの伝聞を頼りにしたかのどちらかでしょう。

 

実際の景色とまるきり違うとか、「歌川広重は盗作をしていた」とか、

まるで鬼の首でもとったかのように書く読みものもありますが、

当時の浮世絵画家にはそれを問題視する感覚はありません。

浮世絵師は模写や模作を日常的におこなっていました。

人の目を引くためなら、他人の作品を参考にしたり、

デフォルメして自作として出版しても構わないし、

実物の富士山とまったく違う姿や色をしていてもいい。

江戸の庶民が驚いて興味をもってくれれば、それでいいのです。

 

広重をはじめ、浮世絵は西欧で評価され、

ゴッホなど著名な西洋画家に認められたので勘違いする人が多いですが、

庶民の楽しみとして印刷され、

不要になれば破れた襖に張られた程度の雑紙なのですから、

そんなことに目くじらを立てていた人はいませんでした。

だからこそアバンギャルドで斬新な作品が生まれたのです。

 

 

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宗教と民衆蜂起の中国史

よしをです。

中国の王朝交代においては、

ほぼ例外なく、民衆蜂起が関わっています。

秦末の陳勝呉広の乱、王莽の新王朝の赤眉の乱

唐末の黄巣の乱などがありますが、

中近世では、宗教団体の扇動による反乱が目立っています。

 

白蓮教は、南宋時代に誕生し、清時代まで存在した宗教で、

古くは東晋(4~5世紀)の浄土教の僧である、

廬山慧遠が創始した白蓮社に起源をもちますが、

白蓮教となったのは、南宋天台宗系の僧・慈昭子元の創始によります。

その教義は、明教(マニ教)と弥勒信仰が習合したもので、

当初から、秘密結社の色合いが濃く、

政府や既成宗教から異端視されていました。

 

元時代になると、革命思想の傾向が強くなり、何度も禁教令を受けました。

近い将来に、衆生を救うために、弥勒菩薩が降臨するという思想は、

王朝や皇帝を否定するものと受け取られたためです。

 

元末に、政治が乱れると、白蓮教の勢力は急速に拡大し、

韓山童を首魁とした民衆蜂起が発生しました。

叛乱軍は、目印に赤い布を身に着けたことから、紅巾の乱と呼ばれました。

托鉢僧あがりの朱元璋は、当初は白蓮教徒でしたが、

元を亡ぼして、明を樹立し、みずからが帝位に立つと、

一転して、白蓮教を弾圧しました。

 

明もまた、農民の叛乱(李自成の乱)で滅ぶと、

満州族が中華に侵入し、清王朝を樹立しました。

その清においても、19世紀になると、民衆の貧困から社会不安が高まり、

民衆の武力蜂起が相次ぎました。

とにかく、同じことを何度も繰り返すのが、中国の王朝末期の歴史です。

 

清末には、2つの宗教団体による叛乱が、相次いで起こりました。

またしても、白蓮教が大規模な農民一揆を扇動しました。

白蓮教は明時代の弾圧に耐え、

清時代になると、邪教として定着していましたが、

地下に潜行して、しぶとく勢力を拡大していたのです。

 

さらに、キリスト教結社の拝上帝会が起こした太平天国の乱は、

阿片戦争を経て、欧米列強に蹂躙されて、

ほとんど虫の息であった、清朝滅亡の決定打になり、

辛亥革命を招く、直接的なきっかけになりました。

 

1992年に、李洪志が創始した法輪経は、

中国の伝統的な健康法である気功と、

道教と古代仏教を組み合わせた修練法で、急速に勢力を伸ばしますが、

1999年になると、江沢民政権は法輪功邪教として活動を禁止し、

弾圧をはじめました。

法輪功実践者の投獄は、数百万人に達するといわれ、

これまで4000人以上が獄死したといわれています。

ネットで法輪功を検索したり、書籍を所持、販売したり、

法輪功の気功を実践することは処罰の対象です。

 

2001年ごろから、

中国国内で、法輪功信者の臓器が売買されているという噂があり、

どうやら、噂にとどまらず、

実際におこなわれているという証拠が、いくつもあがっています。

 

中国政府は、経験則により、国を亡ぼす原因がなにかを知っています。

ひとつが遊牧民族の進入であり、もうひとつは、民衆蜂起です。

少数民族への弾圧や、宗教弾圧は、

その基本政策の一環でおこなわれています。

 

共産党独裁政権は、実質的に、歴代の帝国と変わるところはありません。

また、格差の拡大や官僚の汚職など、

過去の王朝と、まったく同じ社会問題を継承しています。

しかし、いくら取り締まりを強化しても、

15億人の民衆を力で黙らせることは、到底不可能なのです。

 

中国全土では、毎年20~30万件もの暴動が発生しています。

いまのところ、体制を揺るがすほどの規模には発展していませんが、

絶望的な将来を悲観して、キリスト教信者になる者が増え、

その数は、全国で1億人以上に達するという推計があります。

 

もし、太平天国洪秀全のような、

カリスマ的なキリスト教指導者が生まれたらどうなるのか。

中国は、時計のない時限爆弾を抱えているのかもしれません。

 

 

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消えた帰雲城

よしをです。

天正13年(1586年)旧暦11月の深夜、大地震が発生し、

近畿から東海、北陸にかけての広い地域に被害をもたらしました。

それは、のちの1891年10月28日に発生した、

日本最大の直下型地震である、濃尾地震マグニチュード8.0)に匹敵する、

規模だったといわれています。

 

天正地震は、戦国の世を揺るがす大惨事をもたらしました。

近江国長浜では、液状化により、集落が琵琶湖に水没し、

長浜城が全壊して、山内一豊の娘と城家老が死亡しました。

越中国でも、木舟城の倒壊で城主の前田秀継(利家の弟)が死亡し、

美濃国大垣城は焼失し、尾張国清洲城も半壊しました。

飛騨国では、帰雲城とその集落が、山津波と川の氾濫に巻きこまれて、

城主の内ケ島氏理(うちがしま・うじまさ)以下、

内ケ島一族と、領民500名が一瞬のうちに全滅しています。

 

震源は、はっきりしていません。

飛騨の白川断層が有力とされていますが、

北陸のいくつかの断層なども、可能性があるといわれています。

内陸部を震源地としていますが、津波の被害も報告されています。

伊勢湾に面した桑名、長島、弥冨や、三河湾津波が確認され、

沿岸部では地盤沈下もあり、多くが溺死したといわれています。

また、「兼見卿記」やフロイスの「日本史」には、

若狭湾での津波の記述があり、この地震の大きさを物語っています。

 

帰雲城は、世界遺産白川郷のほぼ中央にあり、

戦国時代に白川郷から飛騨国一帯にかけて勢力をふるった、

内ケ島氏の本拠でした。

 

内ケ島氏は、もともと、飛騨の国人(地方豪族)だという説のほか、

「斐太後風土記」には、

信濃国松代にいた、楠木氏の末裔が内島姓を名乗り、

足利義政将軍の命を奉じて白川に来たという記述があるほか、

江戸時代になり、内ケ島氏に所縁のある旗本が、

内ケ島氏は、かつて武蔵国にいた源氏の豪族の末裔であり、

家督争いで飛騨に移り住んだと語っています。

 

飛騨の地は、耕作には不適な土地が多いのですが、

内ケ島氏は、金銀銅の鉱物資源を発見し、大いに栄えました。

また、周囲を山岳で囲まれ、雪深い飛騨地方は、天然の要害であり、

ほかの有力大名の侵略から、逃れることができました。

内ケ島氏理の代になると、

上杉謙信の与力である姉小路頼綱軍の侵攻を受け、撃退しています。

 

天下が統一される過程において、内ケ島氏理は織田家に所属し、

佐々成政に呼応して参戦し、秀吉軍に破れますが、

氏理は、金森長近を通じて和睦を願い出て赦され、

飛騨一国を治めることになった長近に、従属することになりました。

 

天正13年旧暦11月29日(グレゴリオ暦1月18日)、

雪深い帰雲城で、一族や重臣全員を集め、和睦成立の宴が開かれ、

その晩おそく、大地震による山の崩落により、帰雲城は消滅しました。

 

助かったのは、たまたま領外に出ていた数人だけでした。

内ケ島氏理の実弟であった経聞坊は、仏門にあったため難を逃れ、

「経聞坊文書」に、この地震の記録を残しています。

この資料のおかげで、白川郷の惨事をのちに伝えることができましたが、

いまもって、帰雲城の正確な位置は確定されていないそうです。

 

 

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朝日新聞は間違いを認めない

よしをです。

本多勝一氏が編集した「中国の旅」は、

1971年、朝日新聞に4部にわけて連載され、文庫化もされました。

この本は、戦時中の日本軍のルポルタージュであり、

残虐で非人道的な日本軍の姿が、執拗に語られています。

「中国の旅」は、学校の副読本としても使われました。

わたしも、中学時代に、道徳の教材として読まされた記憶がありますが、

ここで語られている日本軍の蛮行というのは、

軍隊という特殊な環境においてすら、

日本人の感覚からは、到底理解できない内容なのです。

 

「中国の旅」は、本多氏が中国で取材をし、伝聞をそのまま書いたもので、

事実関係については、何ら検証されていません。

したがって、数々の事実誤認や意図的な嘘が含まれています。

その圧巻は、南京事件であり、百人斬り競争に代表されるエピソードです。

そのほかにも、あれでもかこれでもかと、残虐な情景が描かれています。

 

文字にするのもおぞましいのですが、一部を紹介します。

「複数の若者の掌に穴をあけて、高圧線の電線を通して並べてぶら下げた」。

「母親から乳児を取り上げ、叩きつけて殺し、母親を輪姦して殺した」。

これらは、以前当ブログで紹介した、元寇におけるモンゴル・高麗軍の、

対馬壱岐での所業と、まるで同じ内容です。

 

「中国の旅」の連載がはじまると、

当時を知る元軍人から、猛烈な抗議が殺到しました。

たとえば、撫順炭鉱では、

落盤事故で死んだ中国人を「万人坑」に投げ込んだという記載があるが、

この炭鉱は露天掘りなので、落盤事故など起きるはずがないといった、

事実に基づいた苦情もありましたが、

朝日新聞は、すべてのクレームを門前払いにしました。

ちなみに、万人坑というのは、

漢楚戦争時代に、項羽が秦の投降兵10万人を崖から突き落として、

大量殺戮したエピソードに由来しています。

 

つまり、本多氏の聞き取りには、

中国人がこれまで自国民に対しておこなってきた所業の数々を、

日本兵に投射したフィクションが、相当多く含まれているのであり、

さらに、それを後方で操っていたのが、中国共産党なのです。

 

本多氏は、「自分は中国で聞いたことをそのまま書いただけだから、文句があれば中国にいってくれ」という、卑怯な言い訳をして逃げていますが、

実態としては、本多氏と朝日新聞は、

意図的に、中国共産党プロパガンダに加担して、日本を貶めていたのです。

われわれ国民は、このことを決して忘れてはなりません。

 

朝日新聞は、決して間違いを認めません。

1932年生まれの本田勝一氏は、現在88歳で存命中だそうですが、

もし、良心があるのなら、

どうか、生きている間に、正しいことを語ってほしいと願います。

 

昔、大阪で、東芝製の冷蔵庫が爆発する事故が発生しました。

朝日新聞が、この事故を、「東芝製冷蔵庫の爆発」として、

企業名をあえて顕名して、紙面で大きく取り上げました。

しかし、事故調査をすすめると、

冷蔵庫に入っていたガスライターのボンベが、腐食してガスが漏れ、

サーモスタットに引火して爆発したことがわかりました。

 

通常の使い方をしていれば、冷蔵庫は爆発しなかったわけです。

東芝は、自社製品に瑕疵がないことが判明したため、

朝日新聞に対して、後追い記事を出してくれるように懇願したのですが、

頑として訂正に応じませんでした。

そこで、東芝は、やむなく朝日新聞謝罪広告を出すことにしたのですが、

朝日は、東芝から正規の広告料を取っています。

総会屋でもあるまいし、まったく笑えない話です。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。

改憲論議ができないなら筋を通せ

よしをです。

このブログでは、

朝日新聞をはじめとするマスコミと左派野党がタッグを組んで、

森友や「桜を見る会」問題、武漢肺炎への政府の対応など、

政府の瑕疵を掘り出しては糾弾するという一連の事象の目的は、

ひとえに、かれらが、安倍政権が考えている、

憲法改正を阻止するための倒閣運動であるという主張をしてきました。

かれらの共通テーマは、「立憲主義」という言葉です。

 

日本国憲法の前文には、

「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と書かれています。

この前文は、日本語として違和感があります。

「諸国民の公正と信義に」ではなく、「諸国民の公正と信義を」が、

正しい日本語の文法です。

そもそも日本国憲法は、日本語で書かれたものではなく、

翻訳からスタートしたため、こんな奇妙な日本語になってしまったのでしょう。

 

憲法第九条は、戦力の不保持と交戦権の放棄を規定しています。

憲法の精神を守り、立憲主義を貫徹するのであれば、

日本は非武装でなければなりません。

しかし、マッカーサーは解釈を変更し、

九条は、「自衛隊を否定するものではない」としたことから、

矛盾が生まれました。

 

当時の憲法学者社会党は、自衛隊の存在を認めていませんでした。

したがって、かれらが主張する立憲主義は、

現実的かどうかは別にして、筋の通ったものでした。

しかし、政府は「自衛隊は軍隊にあらず」と、その存在を認め、

実質的な解釈改憲がおこなわれました。

その後、自衛隊は、災害救援活動などで実績を積み、

軍隊としてではなく、国民の生命財産を守るインフラ機能として、

認知されるようになりました。

 

現在、左派政党は、解釈改憲によって自衛隊の存在を認めながら、

集団的自衛権やPKO派遣に限定して、

憲法九条が死ぬ」、「立憲主義が否定される」と大騒ぎしています。

本来のかれらの主張は、PKOの是非以前に、

自衛隊の存在そのものが、

立憲主義の否定であると主張しなければならないはずです。

しかし、かれらは、自衛隊違憲だと主張すれば、

国民の多くの支持が得られないことがわかっているので、

集団的自衛権に限定して、「立憲主義が死ぬ」と叫んでいるのです。

 

これはだめでしょう。

むしろ、左派政党は、憲法九条の哲学を死守するために、

自衛隊の存続をストップさせなければならず、

自衛隊法の廃止と、安保法(平和安全法整備法、国債平和支援法)の、

全面改正を目指さなければなりません。

辺野古基地の移転ではなく、在日米軍の完全撤退を目指し、

自衛隊に代わる、災害救援のための組織を再編し、

今後、解釈改憲がおこなわれないように、憲法を改正しなければなりません。

 

筋を通すのであれば、ここまでやるべきです。

 

 

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