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消えた帰雲城

よしをです。

天正13年(1586年)旧暦11月の深夜、大地震が発生し、

近畿から東海、北陸にかけての広い地域に被害をもたらしました。

それは、のちの1891年10月28日に発生した、

日本最大の直下型地震である、濃尾地震マグニチュード8.0)に匹敵する、

規模だったといわれています。

 

天正地震は、戦国の世を揺るがす大惨事をもたらしました。

近江国長浜では、液状化により、集落が琵琶湖に水没し、

長浜城が全壊して、山内一豊の娘と城家老が死亡しました。

越中国でも、木舟城の倒壊で城主の前田秀継(利家の弟)が死亡し、

美濃国大垣城は焼失し、尾張国清洲城も半壊しました。

飛騨国では、帰雲城とその集落が、山津波と川の氾濫に巻きこまれて、

城主の内ケ島氏理(うちがしま・うじまさ)以下、

内ケ島一族と、領民500名が一瞬のうちに全滅しています。

 

震源は、はっきりしていません。

飛騨の白川断層が有力とされていますが、

北陸のいくつかの断層なども、可能性があるといわれています。

内陸部を震源地としていますが、津波の被害も報告されています。

伊勢湾に面した桑名、長島、弥冨や、三河湾津波が確認され、

沿岸部では地盤沈下もあり、多くが溺死したといわれています。

また、「兼見卿記」やフロイスの「日本史」には、

若狭湾での津波の記述があり、この地震の大きさを物語っています。

 

帰雲城は、世界遺産白川郷のほぼ中央にあり、

戦国時代に白川郷から飛騨国一帯にかけて勢力をふるった、

内ケ島氏の本拠でした。

 

内ケ島氏は、もともと、飛騨の国人(地方豪族)だという説のほか、

「斐太後風土記」には、

信濃国松代にいた、楠木氏の末裔が内島姓を名乗り、

足利義政将軍の命を奉じて白川に来たという記述があるほか、

江戸時代になり、内ケ島氏に所縁のある旗本が、

内ケ島氏は、かつて武蔵国にいた源氏の豪族の末裔であり、

家督争いで飛騨に移り住んだと語っています。

 

飛騨の地は、耕作には不適な土地が多いのですが、

内ケ島氏は、金銀銅の鉱物資源を発見し、大いに栄えました。

また、周囲を山岳で囲まれ、雪深い飛騨地方は、天然の要害であり、

ほかの有力大名の侵略から、逃れることができました。

内ケ島氏理の代になると、

上杉謙信の与力である姉小路頼綱軍の侵攻を受け、撃退しています。

 

天下が統一される過程において、内ケ島氏理は織田家に所属し、

佐々成政に呼応して参戦し、秀吉軍に破れますが、

氏理は、金森長近を通じて和睦を願い出て赦され、

飛騨一国を治めることになった長近に、従属することになりました。

 

天正13年旧暦11月29日(グレゴリオ暦1月18日)、

雪深い帰雲城で、一族や重臣全員を集め、和睦成立の宴が開かれ、

その晩おそく、大地震による山の崩落により、帰雲城は消滅しました。

 

助かったのは、たまたま領外に出ていた数人だけでした。

内ケ島氏理の実弟であった経聞坊は、仏門にあったため難を逃れ、

「経聞坊文書」に、この地震の記録を残しています。

この資料のおかげで、白川郷の惨事をのちに伝えることができましたが、

いまもって、帰雲城の正確な位置は確定されていないそうです。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。