さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

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フッ化水素の謎のからくり

よしをです。

日本政府による、いわゆる3品目の輸出管理適正化措置に関して、

韓国政府は世界貿易機構(WTO)に不正措置として提訴しました。

日本に対するいつもの一連の嫌がらせのようにみえますが、

注目したいのは、かれらの液体フッ化水素への執着です。

 

現実的に、フッ化水素については輸出規制をしているわけではなく、

問題のない申告に対しては、適切に輸出許可が出ています。

韓国が強い反応を見せている理由はただひとつ、

これまでかれらがフッ化水素を他国に横流ししていたからです。

 

原子力兵器への転用が可能であることから、

日本から韓国に輸出されたフッ化水素は、

イランあるいはイラン経由で北朝鮮に流れた可能性が指摘されていましたが、

実際の横流し先は中国であり、

フッ化水素は中国国内にあるサムスン、SKハイニックスといった、

韓国系の半導体製造工場に送られていました。

 

なぜ、このような迂回輸出がおこなわれていたのかというと、

日本が中国への半導体素材の輸出を制限しているからです。

少量のフッ化水素は、個別に輸出申請を受け付け、

日本から正規ルートで中国に輸出されていましたが、

おそらくそれ以上の膨大な量のフッ化水素が、

韓国経由で迂回輸出されていたのです。

 

日本は輸出管理適正化措置の解除の条件として、

過去数年間のフッ化水素の行き先を示すように求めていますが、

韓国としては答えようがありません。

したがって連日のように日本政府を非難し、WTOに提訴するといった、

半狂乱の反応を見せているわけです。

 

フッ化水素の原料は蛍石という鉱物です。

世界の生産量の大半が中国で、南アフリカ、モンゴルなどが続きます。

日本のフッ化水素は、これらの国から蛍石を輸入して精製していますが、

もし、中国が高度な精製能力を獲得すれば、

原料から完成品まで、すべてを中国が内製化して、

半導体産業を一手に握るという恐ろしい事態になってしまいます。

 

中国への横流しの事実は、日本政府もアメリカ政府も把握していたでしょう。

したがって、日本の輸出管理適正化措置は、

ファーウェイつぶしを目論むアメリカとも思惑が合致し、

日米の合意のもと、おこなわれていると確信しています。

そして日本政府は中国への横流しと断定して、直接中国を叩くのではなく、

暗にイランや北朝鮮の核開発への転用を匂わせて、

世界に対して危機をアピールしているのです。

 

今後、サムスンおよびSKハイニックスの中国工場から、

日本のメーカーに直接フッ化水素のオーダーが入ったとしても、

日本政府はフッ化水素の輸出を許可しないはずです。

現在すでにこれらの工場では、

韓国製の粗悪なフッ化水素が使われていると思いますが、

間違いなく製品の歩留まりは悪化しているでしょう。

 

 

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改名について

よしをです。

ネットの質問コーナーで、このような相談を見つけました。

娘の名前が、「みなみ」なのだが、

結婚を前提にお付き合いをしている男性がいて、

その人の苗字が、「みなみ」だというのです。

もし、結婚すると、名前が、「みなみ みなみ」になってしまうので、

悩んでいるという相談でした。

 

昔、阪神タイガースにいた、真弓選手について、

「奥さんの名前が『まゆみ』だったら、笑うな」、などと思ったものです。

男だったら、五郎丸五郎とか。

当たり前ですが、本人にしてみれば、深刻な悩みです。

 

理由があれば、戸籍上の名前を変更することは可能です。

家庭裁判所に、申立書など、必要な書類を用意して提出するだけで、

15歳以上であれば、本人の申し出で改名できます。

ただし、改名が許可されるかどうかは、裁判所の判断になるので、

家裁への説明のために、説得力をもたせたい場合は、

許可が出やすいような申立書の書き方や、追加資料の提出など、

法律の専門家のアドバイスを受けられれば、

よりスムーズに手続きがすすむでしょう。

 

「名の変更許可の申立書」には、以下のような要件があります。

①奇妙な名前であること

②難読であること

③同姓同名者が多く、不便であること

④異性や外国人と間違われる

⑤神官や僧侶になった(もしくはやめた)

⑥通称として長年使用した

 

「みなみ みなみ」さんの場合は、①に相当すると考えられます。

いわゆるキラキラネームも同じで、

①に加えて、②、④などの要件が認められれば、

改名できる可能性が高まります。

 

よくわからないのは、⑥ですが、どういう意味かといえば、

たとえば、「あゆみ」という本名の人が、

長年、「あみ」という通称を、日常的に使用してきたので、

そちらに改名したいというものです。

これで、何ができるかというと、

先述の「みなみ」さんや、キラキラネームの改名を、

①ではなく、⑥の理由で、

改名できる可能性があるということです。

 

たとえば、「みなみ みなみ」さんの場合、通称を「なみ」として、

「みなみ なみ」さんにするとか、

「新次威(しんでぃ)」などというキラキラ名前の場合、

通称を「しんじ」とし、あわせて漢字も変更するなどが考えられます。

 

ちなみに、戸籍に登録されているのは、漢字だけなので、

たとえば、「光(しゃいん)」という名前について、字はそのままで、

読み方だけを変えたいのであれば、

裁判所での変更手続きは不要です(市役所などに相談)。

 

改名を主業務として、開業している司法書士もいるそうです。

それだけ、名前の問題は、切実な問題になっているのでしょうが、

「そんな時代なんだなあ」、というのが、

昭和生まれの中高年の感想です。

 

 

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人口爆発を止めなければならない

よしをです。

100億人の人口を抱えることになった場合、

地球がどうなってしまうのか、わたしには想像ができません。

人口は、いずれ臨界点にまで達し、

その後、人類が、急速に滅亡に向かってしまうのかもしれないと想像すると、

暗然たる気分になります。

 

人類の歴史において、

産業革命が起こるまで、爆発的な人口増加は発生していませんでした。

限られた地域のなかで、

食糧生産を超えるような人口増加はあり得ないからです。

 

キリスト誕生の時代から1000年を経過して、

地球上の人口は、1億人から2億人に増えただけでした。

しかし、産業革命によって生産性が高まり、未開発の土地が開拓され、

人の移動範囲が劇的に拡大した結果、人口は爆発的に増え始めました。

1900年には16億人になり、1950年には25億人、

2000年には60億人を超え、現在は70億人を突破しています。

 

一方で、日本やドイツなど先進諸国では人口は減少傾向にあり、

移民が多いアメリカでも人口増加率は1%未満です。

一人っ子政策を遂行してきた中国は、増加率を0.5%未満に抑えるなど、

多くの国で、人口増加率は1%未満に抑制されています。

インドや東南アジア諸国は、比較的増加率が高いですが、

いずれも2%未満には抑えられています。

 

どこで人口爆発が発生しているのかといえば、中東とアフリカです。

とくにアフリカ諸国では、平均出生率が5人を超えていて、

この水準を維持すると、現時点で10億人ほどの人口は、

2050年には23億人に達すると推定されています。

もし、アフリカに中国のような強大な政治組織があれば、

強制力のもと、人口政策を推進することも可能で、話は早いのですが、

紛争を繰り返すなど、脆弱な統治体制の国がほとんどです。

 

アフリカの出生率の高さは、命の値段の安さに由来しています。

親には、子どもに教育を受けさせるという意識がなく、

子どもが労働力として認識されていることや、

乳幼児の死亡率の高さから、「歩留まり」をみて多産に向かうこと、

娯楽が少ないことが挙げられます。

 

つまり、これらの問題を解決できれば、

アフリカの人口爆発に、歯止めをかけることができるのです。

まともな保険制度や医療制度を構築し、教育を整備して識字率をあげ、

モバイルやインターネットを充実し、啓蒙活動に努めるなどの施策を、

コツコツと積み上げることが求められます。

 

昔、アフリカの村に安全な飲み水を提供するために、

井戸を掘るボランティア活動をしていた人の話を聞く機会がありました。

かれは、現地の人に、井戸を維持するためのノウハウや、

あらたに井戸を掘る技術も伝えたそうですが、

数年後にその村を訪れると、枯渇した井戸が放置されていたそうです。

わたしは、その話を聞いて、半ば呆れてしまったのですが、

かれは、現地の人の無知蒙昧を嘲るのではなく、

教育システムが未整備であることが問題なのだと、語ってくれました。

 

人びとを教育し、民度を高め、生きるための目標を与えることで、

人口爆発とともに、エボラ出血熱のような疫病の蔓延や密猟、

人為的な自然破壊をストップさせることができるのです。

先進諸国では、依存性が子どもの教育の障壁ともなっている、

携帯電話の普及は、アフリカに情報や娯楽を与えるという意味で、

有効なツールになるかもしれません。

 

マハトマ・ガンジーは50年前に、

「世界にはすべての人びとの必要を満たすに足りるものがあるが、それは、すべての人びとの貪欲を満たすには足りない」、と語りました。

ガンジーの予言は虚しく、

このままでは、最低限の食料を確保することすら難しくなるような、

時代が到来します。

先進諸国は、自らの将来のためにも、

物心両面において、アフリカ支援を惜しむべきではないのです。

 

 

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日本人奴隷の行き先

よしをです。

1990年、日本で出入国管理及び難民認定法の改正により、

多くの南米出身の日系人が来日するようになり、

日本に定住する日系ブラジル人は、2008年には30万人に達しました。

かれらは明治時代以降、

日本からブラジルなど、南米へ渡った移民の子孫ですが、

400年以上前に、南米に日本人が渡ったことはあまり知られていません。

 

1596年、日本人の青年が奴隷としてアルゼンチンに売られました。

アルゼンチンのコルドバ歴史公文書館で発見された記録に記述があったもので、

そこには、「日本人、フランシスコ・ハポン、戦利品(捕虜)、担保・人頭税なしの奴隷を800ベソで売る」と書かれていました。

「フランシスコ・ハポン」というのは、「日本人のフランシスコ」という意味で、

そのように呼ばれていたのでしょう。

本名はわかっていません。

青年は「自分は奴隷として売買されるいわれはない」として、

自由を訴え、裁判を起こして勝訴、自由の身になったとあります。

 

日本では、16~17世紀の戦乱によって、多数の難民や捕虜が生まれ、

その一部が、ポルトガルの奴隷船に乗せられて海外に売られていきました。

悪辣なのはイエズス会で、宣教師は、積極的に日本人女性を奴隷として集め、

ヨーロッパに送っていました。

とても宗教者の振る舞いとは思えない所業ですが、

かれらは東洋人など対等な人間だとは思っていなかったのです。

 

中南米への奴隷船の渡航ルートとしては、

フィリピンのマニラからメキシコへの太平洋横断航路が開かれていました。

1580年代に、支倉常長を頭とした伊達藩の慶長遣欧使使節団が、

ローマに向かう道中いたるところで、

日本人奴隷を多く目撃して驚愕したという話も残っています。

 

豊臣秀吉が慧眼だったのは、

宣教師の活動の危険を見抜いたことでした。

主君の信長にも注意を促し、その後、徳川幕府鎖国政策を採用して、

スペインやポルトガルとの関係を断ち、

オランダのみと交易を続けました。

オランダはプロテスタント国であり、奴隷政策とは無縁だったからです。

 

戦国時代を通じて、日本人の子女数十万人が、

奴隷として世界中に売られていきました。

もし豊臣秀吉や独川家康のような強大な支配者がいなければ、

日本は、スペインやポルトガルに浸食され、

アフリカでおこなわれたような、

白人による奴隷狩りがおこなわれたかもしれません。

 

 

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士別れて三日会わざれば刮目して見よ

よしをです。

三国時代、呉の呂蒙は勇猛果敢な武将として知られていました。

かれは、家が貧しく、学問に触れる機会がなく、

文字の読み書きもできなかったため、自分が話す内容を部下に聞き取らせて、

書類や手紙を代書させていました。

 

同僚はみな、呂蒙の無学をあざ笑って、「呉下の阿蒙」とからかっていました。

「阿蒙」とは、「蒙ちゃん」という意味で、

「愚かな」とか、「幼稚」といった嘲りのニュアンスが込められています。

呂蒙のほうは、そんな連中の評判には耳を傾けず、

自分が無学で武辺一辺倒であることに、誇りをもっていました。

 

君主の孫権は、いつまでも「阿蒙」のまま成長のないことを危惧して、

呂蒙に学問を勧めますが、

呂蒙は、いろいろと言い訳をしては、逃げ回っていました。

ある日、孫権は、「なにも学者になれというのではない」とかれを諭し、

「歴史を学んで、武将としての見識を広めるべき」として、

呂蒙に、いくつかの書物を与えました。

君主にそこまでされては、呂蒙も勉学をやらざるを得ません。

呂蒙は、一念発起して勉学にはげみ、

やがて、本職の学者をしのぐほどの学識を身につけました。

 

無学な呂蒙をバカにしていた幕閣のひとりに、魯粛がいました。

近頃の呂蒙の変化を聞きつけて、面会に行くと、

呂蒙の高い学識に驚き、

「あなたが、あの「呉下の阿蒙」だとは信じられない」と感嘆すると、

呂蒙は、「士別れて三日、即ち更に刮目して相待つべき」と答えました。

 

男たるもの、別れて三日もすれば、大いに成長しているものであり、

また次に会うときには、刮目(目を見開いて)して相手を見て確かめよと、

胸を張って、答えたのです。

もともと、「地頭」はよかったのでしょうが、人間、変われば変わるものです。

 

のちに、呂蒙は、荊州を守っていた蜀の関羽を捕縛し、処刑しますが、

やがて、呂蒙も病の床につきました。

孫権呂蒙の病床に吹き添い、看病したともいわれています。

三国志演義には、関羽の亡霊が夜な夜な呂蒙を悩ませ、

呪い殺されたという伝説が記されています。

 

三国志のヒーロー・関羽を倒したことで、

三国志演義では、悪人として描かれている呂蒙ですが、

その実態は、多くの戦功をあげ、君主に愛された名将でした。

 

 

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おぞましき村山談話

よしをです。

戦後日本の政治史上もっとも醜悪な体制といえば、

自民党社会党が連立政権を組んだ村山富市政権でしょう。

それまで、日米安保反対、自衛隊違憲を主張してきた社会党が、

過去の主張をすべて否定して、

突然、日米安保自衛隊を容認する発言をしはじめたのですから、

当時の社会党支持者はさぞ驚愕したことでしょう。

 

村山政権の負の遺産は現在まで受け継がれています。

それが、いわゆる「村山談話」です。

1995年、戦後50周年記念式典において、

村山総理が閣議決定にしたがって談話を発表しました。

談話の一部に、以下のような一節があります。

 

「わが国は遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって多くの国々、とりわけアジア諸国の人びとに対して多大な損害と苦痛を与えました」。

 

「国策を誤った」のは、具体的にどの政権の責任なのか、

アジア諸国の人びと」とは、どこの国の人のことなのか。

村山総理は、記者からの質問に明言を避けました。

談話には「わが国は国民を存亡の危機に陥れ」として、

国家と国民の関係についても言及がありますが、

はたして当時の国民は「陥れられた」だけの被害者だったのでしょうか。

 

当時の多くの国民が戦争を支持し、新聞社はこぞって戦意を煽り続けました。

われわれは、先人たちがなぜ、あのような無謀な戦争に突入していったのかを

明らかにすべきではないのでしょうか。

ところが村山談話は、一方的に当時の国家を悪者にすることで、

この歴史的事実を葬ろうとしています。

 

村山談話は曖昧な表現を残して発表されたため、

中韓に悪用され、拡大解釈されて、日本を貶める武器となり果てました。

村山氏は後日、講演会で、

村山談話から今日まで、日韓、日中関係がカタガタすることはなかった」

と言ってのけていますが、とんでもない話です。

村山談話が発表されてから1ヶ月もたたないうちに、

中国の江沢民国家主席は、

「日本は侵略戦争と植民地支配を美化することをやめよ」と発言し、

同年に韓国の金泳三大統領は、

「この際、日本の態度を必ず改めさせる」と語りました。

村山談話によって歴史問題が収まったというような客観的事実はなく、

反省の意図が伝わらないどころか、単に中韓に弱みを見せただけだったのです。

 

根拠なく韓国に阿り、慰安婦問題を歴史問題化した河野談話と並んで、

村山談話は日本国を貶めるに十分な効果を発揮したといえるでしょう。

その後、日本の政治家の歴史をめぐる発言が、

日本のマスコミを通じて中韓両国に発信され、

両談話を引用する形で国際問題化するパターンがずっと続いています。

河野氏と村山氏は、現在の日本をみて、今頃何を思うのでしょうか。

 

…ああ、まだ2人とも生きているんだった。

 

 

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すてまがり

よしをです。

関ケ原では、結局、最後まで島津軍は動きませんでした。

やがて、西軍の敗勢が決定的になり、

西軍は戦場の後方にある、北国街道に殺到しましたが、

退路はすでに大混雑で、初動が遅れた島津義弘率いる島津隊300は、

周囲を東軍に囲まれてしまいました。

戦場から逃れるためには、北国街道ではなく、

敵中を正面突破して、別のルートで離脱しなければなりません。

 

島津隊は敗走する小西行長、宇喜田秀家隊に鉄砲を向けて追い払うと、

軍の誇りである、十字の旗指物を捨て、徳川本陣に突撃しました。

そのまま南方の伊勢街道に進路を変えると、

徳川軍は、島津隊のあまりの大胆さに衝撃を受け、

しばらく、呆気にとられて見守っていたといわれています。

 

少し遅れて、本多忠勝、井伊直正、松平忠吉が組織する追撃隊が、

島津隊に向かいました。

島津隊は退路の途中、300の軍勢から、しんがりとして数人を座らせました。

かれらは、命中率をあげるために、胡坐を組んで火縄銃を構えて撃ち、

追走する敵兵が近づくと、槍や刀をとって、白兵戦で玉砕するまで戦いました。

かれらが全滅すると、

本隊は敗走しながら、また数人を座らせて敵を待ち受け、

やはり全員が斃れるまで、追討軍と立ち向かいます。

これを繰り返して、追討軍の進行を遅らせ、大将の義弘を逃す作戦です。

 

この玉砕作戦を、「捨て奸(すてまがり)」といい、

追討隊の本多忠勝は落馬し、松平忠吉や井伊直正は重傷を負っています。

島津隊の損害も大きく、島津豊久(義弘の甥)と、家老の長寿院盛淳は、

自ら「すてまがり」を志願し、戦死しました。

 

追討隊を振り切ったあと、

道中では、野盗による落ち武者狩りにも遭遇しましたが、

それらを返り討ちにして、島津隊は、ようやく大坂にたどり着きました。

島津義弘は、大阪湾からは海路、薩摩に向かいますが、

同じく西軍に与した立花宗茂の船団と、西宮沖で合流しています。

 

島津と立花は、九州の派遣を争う、かつての敵同士でした。

宗茂の家臣は、このチャンスに島津義弘を亡ぼすべしと進言しましたが、

宗茂は、「敗軍を討つのは武家の誉れにあらず」として、

自ら義弘の護衛を申し出ました。

立花宗茂の助力もあって、ようやく島津隊は薩摩への帰還が叶いましたが、

300の島津隊は、80人になっていました。

 

島津義弘は、あまりにも言葉の訛りが強いため、

西軍の諸将とコミュニケーションがとれず、

作戦会議では、孤立していたと伝えられています。

このことから、西軍の方針には不満をもっていて、

戦場では、戦うことなく動かなかったのだといわれています。

 

関ケ原での敗勢が明らかになって、

島津義弘は、一旦は、自害することを考えていたといいますが、

家臣の犠牲のもと、国元に帰還する道を選択しました。

このときの辛い経験が、DNAとなって後世に伝わり、倒幕に向かい、

明治維新につながったことを考えると、感慨深いものがあります。

 

 

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