さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

起業とか資格とか。趣味や思い出話など いろいろランダムに

ミウラカズヨシの時代

よしをです。
ミウラカズヨシといえば、サッカー選手を想起する人が多いと思いますが、
わたしの世代の場合は断然、「ロス疑惑」の三浦和義です。

三浦和義氏は、1947年生まれ。
水の江瀧子を叔母にもち、彼女の隠し子ではないかという噂や、
岸信介の隠し子かも、という噂もありました。
水の江の推薦で、映画で子役をやったこともありますが、
不良少年の十代を過ごしました。
1966年には、放火で逮捕されたこともあります。
漫画雑誌の雑用係や、
ロサンゼルスのカルチャー雑誌の日本駐在員を経て、
1976年に雑貨輸入会社「フルハムロード」を設立しています。

1984年1月発売の週刊文春で、
三浦氏が遭遇した、銃撃事件の記事が掲載されました。
記事は、「疑惑の銃弾」というタイトルで、
1982年に、三浦氏と妻が、
アメリカ・ロスアンゼルスで、暴漢によって銃撃を受け、
妻はのちに死亡、本人も足を撃たれたこの事件が、
三浦氏が企んだ、保険金殺人であるとするものでした。

生命保険金は億5千万円という、当時としては高額なものでした。
文春の記事を発端にして、世間は、未曽有の疑惑フィーバーとなり、
三浦氏は、連日、テレビのワイドショーに引っ張りだこになりました。
三浦氏は、大きなサングラスをかけ、やや甲高い声で、弁舌軽やか、
日本では、まだ馴染みのなかった、ハンティングワールドのバッグをもち、
フェアレディZを乗り回す、まるで芸能人のようないでたちでした。
容貌が酷似していた放送作家景山民夫が、「フルハム三浦」として、
オレたちひょうきん族」に出演していたことを思い出します。

三浦氏の愛人である、ポルノ女優が、
銃撃事件の数か月前、ロサンゼルスのホテルで、
三浦氏の妻を、ハンマーで殴打したことを告白しました。
警察は、この殴打事件で、三浦氏と愛人を逮捕し、
三浦氏は懲役6年が確定し、通算16年間、拘留されました。
しかし、銃撃事件については、立件されたものの、証拠不十分で、
2003年に、三浦氏の無罪が確定しています。

無罪確定後、テレビのバラエティ番組に出演したりもしましたが、
2003年には、三浦氏は、書店での万引きで、現行犯逮捕され、
2007年にも、コンビニでの万引きで、再度逮捕されるなど、
精神的に、変調をきたしたような事件もおこしています。

2008年に、突然、転機が訪れました。
銃撃事件の殺人罪で、三浦氏がサイパン島で逮捕されたのです。
ロス疑惑の捜査は、日本では結審していましたが、
アメリカ国内では、継続中だったためです。
三浦氏は、ロサンゼルスに移送されますが、
ロス市警の留置所で、首つり自殺をしている姿で発見されました。

1979年に、ロサンゼルス郊外で、
身元不明のミイラ化した女性の遺体が発見され、
1984年に、ある日本人であるという身元が判明しました。
この女性は生前、三浦氏と交際していて、
三浦氏の経営する会社の取締役であり、行方不明になっていたのです。
三浦氏は、この女性の口座から、
400万円を引き出したことが確認されており、
「もうひとつのロス疑惑」として報道されましたが、
結局こちらは、立件されませんでした。
三浦和義氏は、謎の多い人物でしたが、
最後は自らの命を絶つことで、疑惑の人生は終わりました。

フルハムロードは、現在、三浦氏の二番目の妻の名をとって、
フルハムロード良枝アゲイン」という店名で、
神奈川県平塚市で、現在も営業しているそうです。


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源五郎丸

よしをです。
古今亭志ん生の落語のマクラに、
昔、九州へ巡業に行った折に、
夜店の露店で、ゲンゴロウを使った、
あみだくじのような遊具で遊んだという話があります。

水を張ってある大きな長方形のトタンの箱の先に、仕切りがあって、
そのいくつかに、敷島だとか、旭だとかのタバコや、
お菓子などが当たるようになっています。
その場所に、ゲンゴロウが入ると、景品が当たるというわけです。
5銭払って、ゲンゴロウを網ですくって、ぽちゃんと入れると、
ゲンゴロウは、向こう岸にむかってスイスイ泳いでいきます。

志ん生のマクラでは、
「野郎、旭ん所に入るかと思うと、すっと何にもない所に入るね」、
「旭ん所に入って、日なたに干されたことがあるに違いねえ」と、
大爆笑を誘うのですが、
わたしは、その遊具が気になって仕方がなく、
思い出したころに、九州出身の先輩に、話を聞いたり、
ときどき、ネットで調べたりしたこともありますが、
何せ、戦後間もなくのエピソードらしく、
なかなか出会うことができませんでした。

最近、検索をしていて、
あるブログ記事で、ようやくゲンゴロウの遊具に出会いました。
三浦半島の花火大会の露店に、
「げんごろうゲーム」というのがあったそうです。

大きな丸い桶に、水が張ってあり、
縁はぐるりと、時計の文字盤のように区切ってあり、
景品によって、区切りの幅が違っています。
ゲンゴロウを網ですくって、水を張った丸い桶の真ん中に落とすと、
桶の縁に向かって泳いでいき、区切った番号の区域に入ったら、
その番号の景品をゲットできるという仕組みです。
ゲームは1回300円だそうです。

ゲンゴロウは、4~5匹用意してあるようで、
10回ぐらい泳がせると、別のゲンゴロウに交代します。
露店のオヤジの、
ゲンゴロウ労働組合の規定」という説明もふるっています。

このゲンゴロウは、野生のものを捕獲したものだそうですが、
昨今は、水生昆虫は激減し、タガメはもちろん、
ミズスマシさえ、見ることが少なくなりました。

わたしも一度、「げんごろうゲーム」をやってみたいものです。
ちなみに、「源五郎丸」の名前の由来は、虫とは関係なく、
源五郎という人物が開拓した土地が語源とのことで、
全国に100人ほどいらっしゃる希少な苗字です。


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「第九」にまつわる話

よしをです。

ベートーヴェン交響曲第9番(いわゆる第九)は、
1824年に、ウィーンで初演を迎えました。
曲が終わったあと、女性歌手に促されて客席を振り返ると、
ベートーヴェンの目に入ってきたのは、
熱狂的な拍手をする、多くの聴衆の姿でした。

ルートヴィヒ・フォン・ベートーヴェンは、
1770年、神聖ローマ帝国のボンに生まれました。
一家は、宮廷歌手をしていた祖父の援助により、生計を立てていました。
ベートーヴェンの父親も歌手でしたが、酒好きのため、
収入は途絶えがちで、祖父が亡くなると、一家の生活は困窮しました。

しかし、父親は、ベートーヴェンの教育には熱心で、
かれに、虐待に近いまでの、音楽のスパルタ教育を施しました。
16歳になったベートーヴェンは、ウィーンに旅行し、
憧れのモーツアルトを訪問したこともあります。

母親が亡くなり、父親はアルコール依存症になり、
ベートーヴェンは、一家の生活のため、仕事を複数かけもちし、
父や幼いきょうだいの生計を支えました。
幸運にも、ハイドンに才能を認められて、弟子入りを認められ、
父が亡くなって、ウィーンに移り住むと、
ピアノの即興演奏の名手として、名声を博するようになりました。

20代後半になると、持病の難聴が悪化し、
30歳を前に、聴覚をほとんど失ってしまいました。
楽家として大切な、聴覚を失うという絶望から、
自殺を考えたこともありましたが、音楽への情熱で苦難を乗り越え、
ベートーヴェンは、交響曲3番の発表を皮切りに、
ピアニストから作曲専業へと、ステージを移しました。

40歳になると、かれは、完全に聴覚を失いましたが、
交響曲9番までを書き上げ、交響曲10番の作曲に取り掛かりますが、
未完成のまま、ベートーヴェンは、56歳の生涯を終えました。

ベートーヴェンは、父親に似て大の酒好きであり、
躁鬱の気分の差が激しく、自信家で、ときに不遜で、
入浴と洗濯を好むなど、きれい好きの一方で、
晩年は服装に無頓着になり、浮浪者と間違われたこともあるそうです。
また、生涯に60回以上、引っ越しを繰り返したことでも知られています。

年末に、ベートーヴェンの第九を歌うという「風習」が、
いつはじまったのかというと、
第一次大戦後、平和を願う市民の思いから、
ドイツのライプツィヒで始まった、音楽イベントだとされています。

日本ではじめて第九が演奏されたのは、徳島県鳴門市にあった、
ドイツ兵の俘虜収容所でした。
1918年6月のことでしたので、第九は年末に限った曲というよりは、
平和を願う曲であるということで、
ドイツ人の間に、広く浸透していたのだと思います。

ベートーヴェンの第九が、あまりに有名になり、
その後、ドボルザーグが、第9番「新世界より」で生涯を終え、
ブルックナーが、第9番の作曲途中で亡くなるなど、
「9番目の交響曲を作曲すると人生が終わる」、
といった言い伝えができました。

都市伝説やジンクスの一種ですが、マーラーは、真に受けたらしく、
第8番のあとに、番号なしの交響曲大地の歌」を発表し、
その後、安心したのか、第9番を作曲し、
第10番の完成途中に、この世を去りました。


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大空の戦場ロマン

よしをです。

 

マンフレート・フォン・リヒトホーフェンは、

第一次大戦の、ドイツ軍のエースパイロットです。

深紅の複葉機を駆って、大空を華麗に舞った、

レッドバロンの異名をもつ、無敵の撃墜王でした。

 

1892年、リヒトホーフェンは、ドイツのブレスラウという、

地方都市に、男爵の長男に生まれ、士官学校を卒業すると、

第一次大戦の東部戦線で、槍騎兵として活躍しました。

かれは、戦場で、はじめて飛行機が使用されるのを見て、

強い憧れをもつようになりました。

 

当時の飛行機は、おもに偵察任務をおこなっていましたが、

やがて、飛行機の搭乗員は、

拳銃やライフルで、撃ち合いをするようになり、

軽機関銃を搭載する飛行機もあらわれました。

戦闘機の登場です。

 

飛行機乗りになったリヒトホーフェンは、爆撃機に搭乗しました。

爆撃機といっても、現代のものとは異なり、

飛行機から直接、搭乗員が爆弾を投下するスタイルですが、

リヒトホーフェンは、自らの工夫で、爆撃機に機銃を搭載し、

フランス軍のファルマンⅢと、はじめての銃撃戦ののち、

撃墜するという戦果をあげました。

 

リヒトホーフェンは、

爆撃機から戦闘機に転向し、順調に戦果をあげました。

イギリス軍のエースパイロットであった、

ホーカー少佐の搭乗機を撃墜するなど、華々しい戦績が認められ、

エリート部隊の第11戦闘機中隊の中隊長に、抜擢されました。

かれの搭乗する戦闘機、アルバトロスDⅡは、

あえて敵にも見やすいように、赤く鮮やかにペイントされ、

ドイツ軍内では、「赤い戦闘機乗り」、フランス軍からは、「赤い悪魔」、

イギリス軍からは、「赤い男爵(レッドバロン)」と呼ばれました。

 

リヒトホーフェンは、

撃墜機の数(スコア)が80機という前人未到の戦績を残しますが、

ついに、最期のときを迎えます。

低空飛行するイギリス軍の戦闘機を追って、攻撃を加えた際、

後方からのイギリス機からの攻撃と、

地上からの攻撃を同時に受けました。

戦闘機は不時着し、

リヒトホーフェンは、胸などに致命傷を受け、即死しました。

25歳という短い生涯でした。

 

リヒトホーフェンは、

騎士道精神にあふれ、責任感が強く、統率力にも優れました。

ハンサムなかれは、ドイツ女性の憧れの的でした。

戦闘の場では、ときに無謀な挑戦をすることもあり、

それが、最後には、致命的な結果を招きました。

 

レッドバロンは、日本のアニメにも影響を与えています。

公式なコメントはありませんが、

宮崎駿の「紅の豚」のモデルは、おそらく、リヒトホーフェンであり、

機動戦士ガンダム」の、ジオン公国のエースパイロットで、

深紅の機体を操り、「赤い彗星」の異名をもつ、

シャア・アズナブルは、

まさに、宇宙時代のレッドバロンといえるでしょう。

 

リヒトホーフェンの戦いは、ロマンをもって、人びとに語られました。

西部戦線異状なし」が語るように、地上戦においては、

すでに、大量殺戮の現代戦が繰り広げられていますが、

かろうじて、空中戦においては、

西欧の騎士道精神が、生きていたということなのでしょう。

以後の戦争になると、殺戮のスケールは巨大になり、

無慈悲な無差別攻撃も、当たり前になり、

ロマンの入り込む余地もなくなってしまいました。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。

鍛冶の神秘

よしをです。

 

わたしの自宅の近所に、

「金」の名がつく、小さな神社があります。

名前が示す通り、製鉄、鍛冶の神を祀った神社で、

毎年11月には、

「ふいご祭」という例祭がおこなわれています。

 

古語拾遺」などの書物によると、

天目一箇神(あめのまひとつのみこと)は、

岩戸隠れの際に刀斧をつくり、

大物主神を祀ったときには、料物を鋳造し、

崇神天皇には、神鏡を奉納したとあります。

日本書紀」には、

天目一箇神が、出雲の神々を祀るための、

作金をおこなったという記述がみられます。

播磨国風土記」には、

土地の女神、道主日女命(みちぬしひめのみこと)が、

父親のわからない子を産んだが、

のちに、天目一箇神が父親であることがわかったとされ、

この神話は、

農耕民と製鉄集団との融合を、

表していると考えられています。

 

「目一箇」とは、つまり隻眼(片目)のことです。

鍛冶師が、高温のなかで、片目をつぶって作業したからとか、

失明は、鍛冶の職業病だったことなどが、

その理由だといわれています。

 

三重県の多度大社の別宮には、

「一目連(ひとつめのむらじ、いちもくれん)宮」という、

鍛冶神が祀られていますが、こちらは片目が潰れた龍神です。

 

日本から遠く離れたギリシアでは、

キュクロープス(サイクロプス)という、

隻眼の巨人が、神話に登場します。

叙事詩オデュッセイア」に登場するキュクロープスは、

旅人を捕らえて食する、粗暴な怪物ですが、

ギリシア神話では、鍛冶神として表現されています。

また、北欧の神話によると、万物の父オーディーンは、

「片目の神」の名をもつ鍛冶神として描かれています。

 

鍛冶と跛行(びっこ)との関連も、指摘されています。

ヨーロッパから中国にいたる、ユーラシア大陸において、

多くの神話や伝説のなかで、

跛行や、踵に弱点をもつことや、

躓いたり、片足で跳ねるといった、

歩行の障害は、死者の世界との関係を、

意味するとされています。

 

ギリシア神話に登場する、

手工業の神、ヘーパーイストスは、跛行で、

アイルランドの伝説では、

ルノという魔法の剣をつくった鍛冶師も、

やはり片足が不自由という設定です。

スラブ神話には、スヴァローグという鍛冶神が、

跛行の象徴である、火を吐く蛇として描かれ、

ゲルマン神話に登場する、鍛冶職人ヴェルンドは、

足の腱を切られ、跛行になっています。

 

製鉄(鍛冶)と隻眼や跛行との関連が、

世界各地で現れるのは、

ただの偶然なのか、それとも、なにか理由があるのか、

同じように、製鉄と、火や蛇、龍などとの

関係が色濃いことは、大変興味深いことです。

 

 

ただの黒い石や砂から、

キラキラ光る金属を生み出す鍛冶の技術は、

きわめて神秘的な現象であって、

金属を作り出す職人や、

その技術が神格化されることになるのは、

ごく自然な現象でもあったのでしょう。

 

「ふいご祭」は、子ども神輿も出るのです。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。

 

男は黙ってサッポロビール

よしをです。

 

1970年に、

三船敏郎を起用した、サッポロビールのCMは

一世を風靡しました。

サッポロビールのホームページによれば、

かつて、サッポロビールは、爽やかな切れ味が特色であり、

やや女性的であるとされていたため、

ビールのヘビーユーザーである男性に遡及するために、

イメージを方向転換させる目的だったとしています。

 

テレビCMは、音楽だけで、コメントはなく、

画面に、「男は黙ってサッポロビール」の文字だけが流れる、

独特の広告スタイルでした。

 

わたしは小学生でしたが、このCMはよく覚えています。

わたしを含め、周りの小学生の男児が、

何かというと、「男は黙って」のフレーズを、

叫んでいた記憶があります。

たとえば、給食の牛乳を飲むときとか(笑)。

 

1970年には、大阪万博がおこなわれ、

日航よど号ハイジャック事件が発生し、

任侠映画が流行し、

謡曲の世界では、「黒猫のタンゴ」が大流行し、

宇多田ヒカルの母親の藤圭子がデビューして、

ヒット曲を連発した年でもあります。

 

サッポロビールと同時期に、ブームになったのは、

男性用化粧品マンダムのCMです。

チャールズ・ブロンソンの決め台詞、

「う~ん、マンダム」のインパクトは強烈でした。

このCMによって、ブランド名が一気に浸透したため、

マンダムを製造する、(株)丹頂は、

1年後に、(株)マンダムに社名変更しました。

そういえば、小学生の頃、

「う~ん、マンダム」も、やってた(笑)。

 

戦争が終わって、25年がたち、

右肩上がりの経済成長で、公害問題も深刻になりましたが、

思いこせば、子どももたくさんいて、豊かな時代でした。

 

先日、珍しく居酒屋へ行った際のことです。

珍しく、サッポロの黒ラベルの瓶ビールを

置いている店だったのですが、

隣の2人組の客のひとりが、

出されたビールに、「男は黙って」と、相手に注いだのです。

わたしは、心の中で、思わず、「おっ」と声が洩れましたが、

店内で、この意味を理解したのは、

わたしを含め、2~3人だったのではないかと思います。

 

 

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ソクラテスについて少し語ってみる

よしをです。

 

少し風変わりな知識人として知られたソクラテスは、

政治には関わらず、

アテネで、普通の市民として生活していましたが、

「徳」をめぐる対話で、

若者に反民主的な思想を吹き込んだとして、

紀元前399年に告発されました。

 

ソクラテスは有罪判決を受け、

罪科を決める2回目の投票で、死刑が確定しました。

弟子のプラトンらは、

不当判決には従う必要はないとして、脱獄を勧めますが、

ソクラテスは、判決は合法的なものとして受け入れました。

かれは、不正をなすことは、不正を受けるよりも害悪である、

という思想に立っていたからです。

 

なぜ、ソクラテスが死刑を受け入れたのかについては、

高校の倫理の授業で、取り上げられていた記憶があります。

「よき市民でありたい」という思いを貫徹したという、

ソクラテスの強靭な精神が、

クローズアップされることが多いのですが、

プラトンの「最後の弁明」を読むと、

ソクラテスは、「死」は経験したことがないので、

「いいことか悪いことか、わからない」とも語っています。

 

神と人間の関係や、死に関する認識や宗教観が、

混沌としていたこの時代、

ソクラテスには、

密かに死を体感したいという欲求があったため、

容易に、人為的な死を受け入れたのではないかと、

多感な高校生のわたしは、考えていました。

 

「自分が無知であると知る人間は、それを知らない人間よりも賢い」

という「無知の知」は、ソクラテス哲学の中心となる思想です。

 

現代のわれわれに例えるなら、

人が何かの分野の専門家として、報酬を得ている場合、

その専門分野において、己があまりにも無知であり、

さらに、無知であることを自覚していないにも関わらず、

報酬を得るという現実はいかがなものか、

という問題提起なのです。

 

サラリーマンの世界であれば、

そんなことは言っていられません。

不完全な知識やスキルであっても、学習しながら、

そのレベルをあげていくのが、実社会の姿です。

ソクラテスの教義を確実に実行しようとすれば、

現代のビジネスは、成立しなくなってしまいます。

 

バカバカしいというなかれ。

これが、ソクラテスに死刑宣告がなされた理由です。

古代ギリシアにおいて、

ソクラテスの主張は、ソフィスト批判につながり、

その思想をもって、若者を洗脳することは、アテネポリスにおいて、

既存の社会制度を崩壊させかねない脅威だと考えられたのです。

 

ソクラテスは、毒ニンジンを服用して死にました。

この毒草は、地中海地方に広く分布し、

草全体に、アルカロイドを含み、

呼吸を麻痺させる働きがあります。

日本国内には自生していませんでしたが、

近年、北海道などで、不法に持ち込まれたものが自生し、

中毒や死亡例も報告されているそうです。

困ったものです。

 

わたしは、ソクラテスの言葉のなかでは、「無知の知」よりも、

「妬みは魂の腐敗である」、が好きです。

 

 

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