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「第九」にまつわる話

よしをです。

ベートーヴェン交響曲第9番(いわゆる第九)は、
1824年に、ウィーンで初演を迎えました。
曲が終わったあと、女性歌手に促されて客席を振り返ると、
ベートーヴェンの目に入ってきたのは、
熱狂的な拍手をする、多くの聴衆の姿でした。

ルートヴィヒ・フォン・ベートーヴェンは、
1770年、神聖ローマ帝国のボンに生まれました。
一家は、宮廷歌手をしていた祖父の援助により、生計を立てていました。
ベートーヴェンの父親も歌手でしたが、酒好きのため、
収入は途絶えがちで、祖父が亡くなると、一家の生活は困窮しました。

しかし、父親は、ベートーヴェンの教育には熱心で、
かれに、虐待に近いまでの、音楽のスパルタ教育を施しました。
16歳になったベートーヴェンは、ウィーンに旅行し、
憧れのモーツアルトを訪問したこともあります。

母親が亡くなり、父親はアルコール依存症になり、
ベートーヴェンは、一家の生活のため、仕事を複数かけもちし、
父や幼いきょうだいの生計を支えました。
幸運にも、ハイドンに才能を認められて、弟子入りを認められ、
父が亡くなって、ウィーンに移り住むと、
ピアノの即興演奏の名手として、名声を博するようになりました。

20代後半になると、持病の難聴が悪化し、
30歳を前に、聴覚をほとんど失ってしまいました。
楽家として大切な、聴覚を失うという絶望から、
自殺を考えたこともありましたが、音楽への情熱で苦難を乗り越え、
ベートーヴェンは、交響曲3番の発表を皮切りに、
ピアニストから作曲専業へと、ステージを移しました。

40歳になると、かれは、完全に聴覚を失いましたが、
交響曲9番までを書き上げ、交響曲10番の作曲に取り掛かりますが、
未完成のまま、ベートーヴェンは、56歳の生涯を終えました。

ベートーヴェンは、父親に似て大の酒好きであり、
躁鬱の気分の差が激しく、自信家で、ときに不遜で、
入浴と洗濯を好むなど、きれい好きの一方で、
晩年は服装に無頓着になり、浮浪者と間違われたこともあるそうです。
また、生涯に60回以上、引っ越しを繰り返したことでも知られています。

年末に、ベートーヴェンの第九を歌うという「風習」が、
いつはじまったのかというと、
第一次大戦後、平和を願う市民の思いから、
ドイツのライプツィヒで始まった、音楽イベントだとされています。

日本ではじめて第九が演奏されたのは、徳島県鳴門市にあった、
ドイツ兵の俘虜収容所でした。
1918年6月のことでしたので、第九は年末に限った曲というよりは、
平和を願う曲であるということで、
ドイツ人の間に、広く浸透していたのだと思います。

ベートーヴェンの第九が、あまりに有名になり、
その後、ドボルザーグが、第9番「新世界より」で生涯を終え、
ブルックナーが、第9番の作曲途中で亡くなるなど、
「9番目の交響曲を作曲すると人生が終わる」、
といった言い伝えができました。

都市伝説やジンクスの一種ですが、マーラーは、真に受けたらしく、
第8番のあとに、番号なしの交響曲大地の歌」を発表し、
その後、安心したのか、第9番を作曲し、
第10番の完成途中に、この世を去りました。


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