さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

起業とか資格とか。趣味や思い出話など いろいろランダムに

怨霊と同居する江戸の町

よしをです。

 

神田明神の氏子は、

成田山に参拝に行ってはいけないとされています。

また、氏子でなくても、

両方を同じ日に参拝してはいけないとされています。

神田明神成田山には深い因縁があり、

対立関係にあるのです。

 

平将門は、桓武天皇の5世子孫、関東を支配した豪族ですが、

朝廷に反旗をひるがし、

自らを新皇と名乗り、関東で独立を宣言しました。

朝廷は、藤原秀郷平貞盛を差し向け、

将門の討伐に向かいました。

将門は、一時は関東一円を支配するほどの勢力を誇りましたが、

兵力を分散させる愚策によって、数に勝る朝廷軍に破れ、

将門は、940年にあっけなく敗死しました。

 

将門の討ち死にについては、

呪術の力も加わったといわれています。

朝廷から命をうけた僧・ 寛明は、

追討軍とともに、将門を調伏するために下総国に向かい、

21日間にわたる護摩行をおこないました。

戦場は、将門に有利な状況でしたが、護摩祈祷の満願の日、

護摩の火のなかに、将門の姿が現れると、

戦場の風向きが、突然変わりました。

風下に立った将門軍は、突如不利な状況になると、

流れ矢が将門の額を打ち抜き、将門は討ち死にしました。

調伏が叶った寛明は、

不動明王の像を動かそうとしますが、微動だにしません。

すると、寛明に、「長くこの地に留まり、朝敵幸福のために働く」、

という託宣があり、

この場所に不動堂を建立して祀ることになりました。

これが、成田山新勝寺の由来です。

 

将門の首は京に送られ、さらし首になりました。

将門の首は何か月も腐ることなく、

夜な夜な、「もう一度戦わん」と叫び続けました。

やがて、将門の首は

、自分の体を探すために、関東を目指して飛び去り、

力尽きて落下した場所につくられたのが、

皇居前にある首塚です。

そして、将門の怨霊を鎮めるために祀ったのが、

神田明神というわけです。

 

徳川家康は、

有名な将門の怨霊の力を利用して、江戸の町を設計しました。

江戸の町に、将門を祀る、7つの神社を建造するのですが、

これらのゆかりの神社を腺で結ぶと、

北斗七星の形になるのだそうです。

それというのも、将門は「妙見神(北極施や北斗七星信仰)」を、

信仰していたという、言い伝えがあるからだそうです。

漫画「北斗の拳」も、

将門をイメージした物語なのかもしれませんね。

 

家康に、オカルト信仰があったのかどうかはわかりませんが、

新世界の建設を目指した、

将門へのリスペクトがあったことについては、

大いに想像がつきます

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。