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歩きスマホ

よしをです。
二宮尊徳(幼名・金次郎)は、
現在の神奈川県小田原市に生まれた、江戸後期の農政家です。
農家に生まれ、苦労して没落した実家を再興し、
その手腕を買われて、諸藩で600あまりの村を復興しました。
徹底した実践主義者で、
農村の生産力に応じて、分度を定めて勤勉と倹約をすすめ、
富を分け合うという、「報徳思想」を説き、多くの支持者に感謝されました。

金次郎の没後、娘婿の富田高慶氏が、
金次郎の徳行などをまとめた、「報徳記」を出版し、
のちに、「報徳記」を読んだ明治天皇が、
いたく感心して、全国の県知事に配布したといわれています。
内村鑑三が執筆した「代表的日本人」には、
また、日本を代表する5人のうちのひとりに金次郎を挙げ、
「農民聖者」として絶賛しています。
これらのことから、二宮金次郎の名前と業績が全国に広まったのです。

明治24年に、幸田露伴は、
少年少女向けの伝記として、「二宮尊徳翁」を執筆しましたが、
本の挿絵に、薪を背負って読書しながら歩く金次郎が描かれたことから、
このビジュアルイメージが定着しました。
小学校の、「修身(現代の道)」の教科書にも、
孝行、勤勉、倹約、奉仕の模範として、
この挿絵とともに、二宮金次郎が取り上げられました。

学校というのは、ビジネスの格好のマーケットで、
一度実績ができれば、それこそ芋づる式に、商売がつながります。
昭和初期、銅器生産が盛んな富山県高岡市が、
二宮金次郎ブームを商機とみて、
銅像の建立を、全国の小学校にセールスしたところ、大当たりしました。
金次郎像は全国に広がりましたが、
太平洋戦争期には、武器製造のための金属供出がおこなわれ、
のちには、小学校の建て替えによって撤去されるなど、
全国の小学校から、徐々に姿を消しています。

これらの物理的な理由のほかにも、
保護者からの声を反映して、撤去を決めた学校もあるといいます。
「児童の教育方針にそぐわない」、
「子どもが働かされる姿をみせるのは不快」、
「戦時教育の名残」、といった理由に加えて、
「歩いて本を読むのは危険」、という指摘もあったということです。
そして、いかにも現代らしいのは、
「歩きスマホを助長させる」、という保護者の意見でした。

昭和初期、高岡の鋳造業者を潤した二宮金次郎像製作は、
昨今では、受注が完全にストップしたようにも見えますが、
趣向を変えて、あらたな展開を見せています。

2016年に栃木県の小学校で、あたらしく披露された二宮金次郎像は、
背中に薪を背負って、切株に腰かけて読書する姿でした。

ビジネスは、こうでなくてはと感心する次第。


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。