さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

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戦国時代のサラリーマンの運というもの

よしをです。

大坂と京都間を電車で移動するルートは、

JRもしくは私鉄の阪急電車京阪電車があります。

京阪電車は大阪の淀屋橋から京都の出町柳を結んでいますが、

途中に中書島(ちゅうしょじま)という名前の駅があります。

この珍しい地名は、桃山時代に遡ります。

 

豊臣政権下、伏見城の周辺に諸将が居住地を定めました。

脇坂安治宇治川の中州に屋敷を構えました。

当時の安治は、中務少輔(文部大臣)という役職で、

中国では、同役職を「中書(ちゅうしょ)」と呼んだことから、

この中州一帯を、中書島と呼ぶようになったのです。

 

1554年生まれの脇坂安治は、

ご存知、賎ヶ岳の七本槍のメンバーのひとりです。

安治は、実父(田付氏)を早く亡くし、

母親の再婚により、脇坂家の跡取りになりました。

義父の脇坂安明は、近江の浅井氏に仕えましたが、

織田信長の観音寺攻めで戦死しました。

安治は織田家に仕え、明智光秀の与力になって丹波攻略で活躍しました。

黒井城の戦いでは、

悪右衛門の異名をもつ敵将の赤井(荻野)直正に、開城を進言しました。

直正は降伏には応じませんでしたが、

安治の好意への謝意として、貂(てん)の皮の旗指物を与えたとあります。

その後、安治は、

明智光秀から豊臣秀吉の与力へと、配置転換を命じられますが、

これが、安治にとって人生最大の岐路となりました。

 

光秀が滅び、柴田勝家と争った賤ケ岳での活躍は誰もが知るところです。

秀吉が徳川家康と戦った小牧長久手の戦いでは、

滝川一益の居城である、伊賀上野城の攻略で武功を立て、

安治は洲本(淡路島)3万石を拝領しました。

 

淡路島への異動をきっかけに、海賊上がりの九鬼嘉隆らとともに、

安治は、豊臣水軍の指揮官のひとりに抜擢されました。

九州征伐では、海路、大友宗麟に兵糧を届け、

小田原征伐では、海上から伊豆下田城の攻略に成功しています。

朝鮮の役でも水軍を率い、

韓国の歴史ドラマでは、日本以上に大きく取り上げられています。

もちろん悪役です(笑)。

 

関ケ原前夜、すでに豊臣家の将来に見切りをつけていた安治は、

家康の会津征伐に、息子の安元を参戦させようとしますが、

石田三成に妨害されて叶わず、

関ケ原でも、やむなく西軍側として出陣することになりましたが、

戦場では、小早川秀秋の裏切りに呼応して、

東軍の勝敗を決定する役回りを演じました。

ちなみに、関ケ原で西側についた七本槍のメンバーは、

全員、断絶の憂き目に遭っています。

戦後、安治は大洲(愛媛県大洲市)5万3千石を拝領し、

1615年の大坂の陣では、息子の安元が出陣しました。

 

安治は、その年に家督を安元に譲ると京に移り住み、

1626年に没しました。

多くの外様大名が改易の憂き目に遭うなか、

脇坂氏は、大洲から飯田(長野)、龍野(兵庫)と本拠をかえながら、

「願い譜代大名(準譜代大名)」扱いとなり、明治維新を迎えています。

 

脇坂安治の処遇については少々疑問があります。

かれの華々しい戦歴からして、評価が低すぎる印象があるのです。

関ケ原では裏切り者の誹りを拭いきれなかった面があるとはいえ、

それ以前の秀吉の評価についても、低すぎるように思います。

おそらくこれは、安治の責任ではなく、

かれが一時期、主殺しの明智光秀の傘下にあったことが、

秀吉の評価を落していた原因だったと推察するのです。

 

サラリーマンでいえば、中途入社の安治は転勤を重ねますが、

赴任先の上司が懲戒解雇になるなど、

あまり、上司に恵まれなかったため、高い評価を受けられず、

役員相当の成果を残しながらも、部長クラスで定年を迎えた、

といった人生でしょうか。

しかしかれは、ほかの中途採用の同期がリストラされるなか、

最後までサラリーマン人生を全うしたのです。

 

江戸時代、脇坂家の参勤交代では、先頭を率いる兵がもつ槍の鞘に、

悪右衛門から拝領した、貂の皮がかぶせてあり、

江戸市中の庶民は、すぐに、脇坂家であることがわかったといいます。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。