さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

起業とか資格とか。趣味や思い出話など いろいろランダムに

見たことのない景色を書く

よしをです。

歌川広重出世作東海道五十三次」が描かれたのは1833年、

広重37歳のときでした。

その前年に京都に旅して構想を得たとされていますが、

実際には広重は旅行をしていないという説が有力です。

 

まず箱根の図には存在しない巨石がそびえ立っています。

天下の険をモチーフに、

芸術としてデフォルメされた姿としてみることもできますが、

箱根を越えると、さらに実態とは異なる景色が多くなっていきます。

傑作のひとつに数えられる蒲原(静岡県)の図は雪風景ですが、

温暖な静岡でこれほどの積雪があるとは考えられませんし、

終着の三条大橋では、石造りの脚柱をもつ巨大な橋を木製として描くなど、

細かな現実との違いを指摘されています。

 

最近の研究では、広重作「東海道五十三次」は、

司馬江漢の「東海土五十三次画帖」や「春波楼画譜」、

あるいは数人の合作である「東海道名所図会」を手本にした、

という説が有力です。

 

広重は江戸から京まで、司馬江漢は京から江戸までの構成になっていて、

前述の蒲原の雪景色など、いくつかの構図が共通しています。

(ただし司馬江漢作は雪景色ではない)。

また「東海道名所図会」でも、広重と江漢の構図は共通しています。

司馬江漢は1818年に亡くなっていて、

五十三次が刊行されたのは1833年ですから、時系列的には納得がいきます。

さらにいえば「東海道名所図会」が発行されたのが1797年で一番古く、

東海道名所図会」⇒江漢⇒広重の順に、

いくつかの宿景色の構図は模写され、参考にされた可能性が高まります。

つまり、司馬江漢作にも模索の可能性があるのです。

 

さらに江漢作には、

当時存在しないはずの顔料が使用されていたという指摘があり、

明治以降に作られた贋作の疑いがあるといいます。

その場合、司馬江漢作とされている「東海土五十三次画帖」は、

逆に広重の模写ということになるわけです。

 

広重は東海道以外にも、

近江八景」「木曽街道六拾九次」「京都名所之内」「浪花名所図会」など、

街道ものの作品を多く残しています。

すべて現地を訪問してデッサンしたとは考えられないので、

これらの作品も、別の作品の構図を参考にしたとか、

あるいは旅行に行った人からの伝聞を頼りにしたかのどちらかでしょう。

 

実際の景色とまるきり違うとか、「歌川広重は盗作をしていた」とか、

まるで鬼の首でもとったかのように書く読みものもありますが、

当時の浮世絵画家にはそれを問題視する感覚はありません。

浮世絵師は模写や模作を日常的におこなっていました。

人の目を引くためなら、他人の作品を参考にしたり、

デフォルメして自作として出版しても構わないし、

実物の富士山とまったく違う姿や色をしていてもいい。

江戸の庶民が驚いて興味をもってくれれば、それでいいのです。

 

広重をはじめ、浮世絵は西欧で評価され、

ゴッホなど著名な西洋画家に認められたので勘違いする人が多いですが、

庶民の楽しみとして印刷され、

不要になれば破れた襖に張られた程度の雑紙なのですから、

そんなことに目くじらを立てていた人はいませんでした。

だからこそアバンギャルドで斬新な作品が生まれたのです。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。

見たことのない景色を書く

よしをです。

歌川広重出世作東海道五十三次」が描かれたのは1833年、

広重37歳のときでした。

その前年に京都に旅して構想を得たとされていますが、

実際には広重は旅行をしていないという説が有力です。

 

まず箱根の図には存在しない巨石がそびえ立っています。

天下の険をモチーフに、

芸術としてデフォルメされた姿としてみることもできますが、

箱根を越えると、さらに実態とは異なる景色が多くなっていきます。

傑作のひとつに数えられる蒲原(静岡県)の図は雪風景ですが、

温暖な静岡でこれほどの積雪があるとは考えられませんし、

終着の三条大橋では、石造りの脚柱をもつ巨大な橋を木製として描くなど、

細かな現実との違いを指摘されています。

 

最近の研究では、広重作「東海道五十三次」は、

司馬江漢の「東海土五十三次画帖」や「春波楼画譜」、

あるいは数人の合作である「東海道名所図会」を手本にした、

という説が有力です。

 

広重は江戸から京まで、司馬江漢は京から江戸までの構成になっていて、

前述の蒲原の雪景色など、いくつかの構図が共通しています。

(ただし司馬江漢作は雪景色ではない)。

また「東海道名所図会」でも、広重と江漢の構図は共通しています。

司馬江漢は1818年に亡くなっていて、

五十三次が刊行されたのは1833年ですから、時系列的には納得がいきます。

さらにいえば「東海道名所図会」が発行されたのが1797年で一番古く、

東海道名所図会」⇒江漢⇒広重の順に、

いくつかの宿景色の構図は模写され、参考にされた可能性が高まります。

つまり、司馬江漢作にも模索の可能性があるのです。

 

さらに江漢作には、

当時存在しないはずの顔料が使用されていたという指摘があり、

明治以降に作られた贋作の疑いがあるといいます。

その場合、司馬江漢作とされている「東海土五十三次画帖」は、

逆に広重の模写ということになるわけです。

 

広重は東海道以外にも、

近江八景」「木曽街道六拾九次」「京都名所之内」「浪花名所図会」など、

街道ものの作品を多く残しています。

すべて現地を訪問してデッサンしたとは考えられないので、

これらの作品も、別の作品の構図を参考にしたとか、

あるいは旅行に行った人からの伝聞を頼りにしたかのどちらかでしょう。

 

実際の景色とまるきり違うとか、「歌川広重は盗作をしていた」とか、

まるで鬼の首でもとったかのように書く読みものもありますが、

当時の浮世絵画家にはそれを問題視する感覚はありません。

浮世絵師は模写や模作を日常的におこなっていました。

人の目を引くためなら、他人の作品を参考にしたり、

デフォルメして自作として出版しても構わないし、

実物の富士山とまったく違う姿や色をしていてもいい。

江戸の庶民が驚いて興味をもってくれれば、それでいいのです。

 

広重をはじめ、浮世絵は西欧で評価され、

ゴッホなど著名な西洋画家に認められたので勘違いする人が多いですが、

庶民の楽しみとして印刷され、

不要になれば破れた襖に張られた程度の雑紙なのですから、

そんなことに目くじらを立てていた人はいませんでした。

だからこそアバンギャルドで斬新な作品が生まれたのです。

 

 

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阿波の人形浄瑠璃

よしをです。

世界各国にある人形劇を、少し紹介したいと思います。

フランスの「ギニョール」は、17世紀ごろ、イタリアから伝わったとされ、

もともとは労働者の娯楽としてはじまったドタバタの風刺劇でしたが、

現在は子ども向けの娯楽として、上演されています。

 

トルコの「カラギョス」は、影絵の人形劇です。

歴史は古く、14世紀のオスマントルコ帝国の首都ブルサに生まれ、

現代に伝わる伝統劇です。

白い幕の後方から光を当て、幕の裏で切絵人形を操って、音楽も伴います。

内容は、町人のカラギョスと物知りのハトの掛け合いで、

祭りや結婚式などのハレの日に上演されるようです。

中国にも、「皮影戯」という影絵があり、

1200年前の唐時代には、紙人形による芝居が上演されていたそうです。

 

台湾には、「布袋劇」という民間芸能があります。

この人形は、頭部と手足は人形で、

それ以外の身体部は布で隠されているという、等身大の人形です。

 

わが国の人形浄瑠璃の歴史は、15世紀の淡路島を起源とする説が有力です。

それ以前は、平安時代から存在した傀儡子(くぐつし)に、

ルーツがあるといわれています。

一説には、傀儡子は大陸から渡海した漂泊民で、芸能に長じていたそうです。

 

傀儡子は、各地を漂泊して、曲芸や舞踊、物真似をしていました。

男は弓今で狩猟し、刀玉のような曲芸をし、人形を操り、

女は唱歌淫楽の遊女を生業としていたと記されています。

 

一方で、寺社や有力者の庇護を受けていた者(いわゆる散所者)があり、

西宮神社を根拠とした一団は、「えびすかき」と称して、各地を回りました。

かれらの演芸のなかに、人形を使った見世物があり、

やがてそれは、2つの方向に発展しました。

 

ひとつは、首から人形箱をつるして、

箱の上で人形を操って、門付(かどづけ)をして歩く、

首掛け芝居(別名「木偶まわし」「山猫まわし」)というもので、

幕末まで続きました。

ちなみに、門付とは民家の戸口を回る物乞いの一種で、

室町時代には、卜占や呪術的芸能をした「声聞師(しょうもんじ)」や、

新春を祝う松囃子なども、傀儡子とともに、門付をおこないました。

 

もうひとつが、もっと大掛かりな人形劇(人形浄瑠璃)です。

人形浄瑠璃は、発展の過程で、

人形遣いと物語を語る太夫、三味線の3つが合わさって成立し、

常設の舞台で多くの観客を集めました。

 

淡路島に人形浄瑠璃を伝えたのは、

室町時代の、西宮神社の散所者だという言い伝えがあります。

人形浄瑠璃は淡路島で盛んになり、大阪にわたって文楽となり、

四国にわたって、阿波人形浄瑠璃になりました。

 

阿波では、藩主蜂須賀家の庇護をうけて発展し、

阿波浄瑠璃は、野外の農村舞台で盛んに上映されました。

野外公演で見栄えがするように、人形の頭が大きいのが特徴で、

洗練された大阪の文楽人形とは異なり、素朴で力強い人形です。

 

阿波浄瑠璃の代表的な演目は、

「ととさんの名は十郎兵衛、かかさんはお弓と申します」のセリフで、

お馴染みの、「傾城阿波の鳴門 順礼歌の段」です。

 

徳島市にある、徳島県立阿波十郎兵衛屋敷」では、

毎日、阿波浄瑠璃が上映されているということで、

機会があれば、訪ねてみたいと思います。

大阪の文楽との違いも確認してみたいです。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。

春画の世界

よしをです。

春画は、しばらく前までは、言葉に出すのも憚られる存在でしたが、

近年は春画の展覧会などもおこなわれ、

美術品としてのポジションを獲得しています。

 

春画に描かれているのは、男女の営みだけでなく、

同性同士のものや、動物や妖怪との絡みも描かれています。

葛飾北斎の、海女とタコの絡みの図や、

歌川豊国の作品では、

怪談・牡丹燈篭をテーマにした「絵本開中鏡」という冊子が有名です。

この本は、妻を亡くした浪人が抱いていたのは骸骨だったという内容で、

前の見開きページには、女性との絡みが描かれていますが、

ページをめくると、怪談絵になっているという仕掛けです。

 

春画は幕府に禁じられ、地下出版になりました。

これによって、好事家が密かに楽しむ希少本になり、

浮世絵作家にとっても、割のいいアルバイトになりました。

地下本といっても、絵師は手を抜くことなく、

むしろ、生き生きと描かれているように感じます。

 

表舞台で活躍する一流の絵師も、隠号(ペンネーム)を使って、

多くの春画を手がけました。

名の知られた絵師のなかで春画を描かなかったのは、

東洲斎写楽だけだといわれています。

 

たとえば、歌川国貞の隠号は、「婦喜用又平」で、渓斎英泉は「淫乱斎」。

葛飾北斎の隠号は、「鉄棒ぬらぬら」や「紫色雁高」。

巨匠北斎も、舞台裏で完全に遊んでいます(笑)。

 

歌川国芳の隠号は、「一妙斎程よし」や「一妙開保登由」などで、

表の名前の「一勇斎国芳」をもじっているため、

読者はそれとなく作者がわかっていたはずです。

国芳春画には、かれが大好きな猫も、たびたび登場しています。

 

春画」という呼び名は明治以降のことで、

「枕絵」、「わ印」、「あぶな絵」、「笑い絵」などの呼び名があります。

日本では古代より、性行為と笑いは切り離せない関係にありました。

性行為は繁栄の証であり、めでたいものであるという、

農耕民族たる日本人のDNAに根差した哲学ともいえるでしょう。

 

わたしも、浮世絵は風刺画と美人図を所有していますが、

コレクションに春画を加えたいかというと、ためらいがあります。

理由は、普通に飾れないものは所有しない方針だからです。

 

 

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死海文書と贋物

よしをです。

1947年に、パレスチナのクムラン洞窟で、

遊牧民ベドウィンの羊飼いが古い壺を見つけました。

そのなかに数千本の古い巻物が収められていて、

調査の結果、1800年以上前に書かれたものであることが判明しました。

 

巻物にはユダヤ教の教義信条や生活規範などが、

ヘブライ語アラム語ギリシャ語で記されていて、

現存する最古のヘブライ語聖書の写本も含まれていました。

これらの一連の古書物を死海文書といい、

現在、その多くがイスラエル博物館の所蔵となっています。

 

その後、ベツレヘムの古物商の男が、

地元のベドウィンから多数の巻物の断片を買い取ったという噂があり、

2000年以降、死海文書の断片とされるものが市場に出回りました。

それはいずれも硬貨ほどの大きさで、収集家や博物館は、

現存する最古の聖書写本を入手するチャンスとばかりに飛びつきました。

 

アメリカワシントンDCにある聖書博物館もそのひとつですが、

専門家の調査の結果、博物館が所有する死海文書の16点の断片が、

すべてニセモノだと判明しました。

 

本物の死海文書は羊皮紙(動物の皮を伸ばしたもの)に書かれていますが、

聖書博物館の断片は、皮をなめした皮革でつくられていて、

皮の製法が、本物とは異なっていました。

羊皮紙は年月が経過すると、コラーゲンが分解されてゼラチン状になり、

弾力性のある独特の質感が出てくるのですが、

贋物の断片の皮革の表面は、膠(にかわ)で加工され、

なめらかな質感になっていました。

 

ただし、皮革自体は古代のもので、

断片のひとつには、人工的に開けた小さな穴が並んでいました。

ローマ時代の靴にも同じような穴があけられていることから、

この断片は、おそらくどこかの砂漠に埋もれていた、

靴かサンダルの切れ端だったと考えられています。

 

さらに、インクが、素材の亀裂の間に液だまりをつくり、

破れた断面から流れ落ちている状況がみられました。

これは、皮革が破れたり、劣化してから、文字が書かれた証拠です。

X線を当てると、

死海文書が書かれた時代よりものちに生まれた技法である、

石灰をつかって獣毛を取り除く処理がされていることも判明しました。

 

このように、次々と贋作の証拠が明らかにされていったのですが、

博物館としては、事前に見破るすべはなかったのでしょうか。

 

贋作に騙される場合、

文物そのものの真贋判定が難しいというケース以外に、

来歴など、周辺状況によってミスジャッジを起こすケースがあります。

この場合、ベドウィンが秘蔵していた大量の古代文書の断片を、

古物商が買い上げたという噂があったことが最初の罠でした。

その風評が事実かどうかも不明であり、

それが事実であったとしても、古物商が買い上げたものが、

死海文書と同時代の古いものだったかどうかは、わからないのです。

 

もうひとつの罠は、

ユネスコが、1970年に文化財不法愈室乳等禁止条約を採択し、

不当な発掘や文書の売買を禁止したことです。

ユネスコ条約以前に発見された断片は、取引禁止の対象外とされたため、

これが最後のチャンスとばかりに、

欲にかられたコレクターや博物館が我先に飛びついたというわけなのです。

 

聖書博物館と同じ来歴の断片が世界に70点ほどあるといわれていますが、

おそらく、すべてが贋物でしょう。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。

江戸の園芸ブーム

よしをです。
江戸時代、季節の花々を楽しむことは庶民の身近な娯楽でした。
18世紀になると、植木鉢が普及し、
江戸など、庭を持たない都市部での植物の栽培が盛んになりました。

当時の浮世絵にも、
植木売りや身近に置いた花木を愛でる様子が、多く描かれています。
菊細工の展示など、一種のテーマパークのような娯楽も生まれ、
園芸植物の図鑑や、花の名所のガイドブックが出版されました。
庶民の間に、園芸サークルのような集まりも、生まれました。
それまで、寺社や高貴な人の娯楽であった盆栽も、
一気に庶民に広がりました。

怪談もので知られた、歌舞伎の三代目尾上菊五郎は、
自宅の庭に植木鉢や温室を備え、多様な花を育てていたそうで、
歌舞伎の舞台にも、小道具として、菊五郎の花が飾られました。

江戸のひとびとは、
朝顔、菊、万年青(おもと)などの品種改良をおこないました。
とりわけ、朝顔は、世界でも類を見ないほどの品種が改良され、
突然変異などで生まれた変種は、驚くような高額で取引されました。
経済的に困窮する旗本などが、
自宅で、朝顔栽培の内職をし、家計を助けることも多かったそうです。

1860年に来日した、
イギリス人の植物学者、ロバート・フォーチュンは、
当時の江戸を、「世界一の園芸大国」と絶賛しました。
ただ、残念なことに、江戸時代に生まれた品種の多くは、
現在は消滅してしまい、
黄色の朝顔などは、今では幻の花だといいます。

朝顔市といえば、東京・入谷が有名です。
江戸時代から続くのかといえば、以外にも歴史は浅く、
昭和20年の終戦の日から、
焼け野原の東京の復興を願って、
はじめられた祭りだということです。
その後、朝顔市は7月6~8日となり、
7月9~10日に開かれる
浅草のほおずき市と並んで、江戸の風情を今に伝えています。


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銭貨と紙幣

よしをです。
宋が鋳造、発行した銭貨は、宋元通宝にはじまり、太平通宝、
淳化元宝、至道元宝、景徳元宝、祥符元宝、建炎通宝などが知られ、
北宋時代で30種類ほど、南宋時代で20種類ほどが鋳造されました。

宋銭は、中国国内だけでなく、
流通範囲は、金、西夏ベトナムから、インド、ペルシアまで及び、
平清盛は、日宋貿易によって、
宋銭を大量に輸入して、国内で流通させました。

宋銭は、室町時代まで、長期にわたって使用されましたが、
摩耗や破損など、劣化したものが多くなりました。
貨幣経済が急速に発達したことから、さらに銭の需要が高まり、
あらたに、明の銭貨が輸入されました。

明では、初代洪武帝の代に、洪武通宝が発行され、
宣徳通宝、弘治通宝、嘉靖通宝など、各種銭貨が発行されました。
なかでも、代表的な銭貨は、永楽帝時代につくられた、永楽通宝です。

永楽通宝は、室町時代に、日明貿易で大量に輸入されました。
通用禁止令が出される江戸時代初頭の1608年まで、
日本国内で広く流通し、
禁止令以後は、永楽通宝をベースにつくられた、
寛永通宝などの国産銭貨に代わりました。

永楽通宝は、明国内では流通せず、
もっぱら海外で流通していたという説があります。
初代洪武帝のとき、
皇帝の名の銭貨を発行したものの、途中で紙幣に切り替えたため、
それ以後は、貿易の決済のためだけに、
銭貨を発行していたというのです。
実際に、永楽通宝は、日本だけでなく、ベトナムやインドまで流通し、
さらに遠く、アフリカのケニアからも出土しています。
海外で発見された銭貨の量は、
中国国内での出土よりも、はるかに多いのです。

しかし、銭貨から紙幣への転換説は、
第二次大戦後、中国の研究者が、
中国の貨幣経済の先進性をアピールするという目的が、
メインだったようで、正しい分析ではありません。
洪武帝の紙幣「大明通行宝鈔」は、6種類が発行されましたが、
不換紙幣だったこともあって、価値を維持することが難しく、
永楽帝の時代には、外征によるインフレが激化したため、
価値が暴落し、使われなくなったというのが実情のようです。
一方で、銭貨は、兌換貨幣であり、
金銀貨幣への交換が担保されていたため、
貨幣としての信用性を、長く維持することができました。

外国の貨幣が国内で流通するというのは、不思議に感じますが、
金属に限らず、貝であろうが、石であろうが、何であろうが、
物資と交換できるモノとして正常に流通する保証があればいいわけです。
これは、現代でも通じる真理原則です。
すべての国の紙幣は不換紙幣ですが、
自国政府の信用度の低い第三国では、
不換紙幣の価値を維持することが難しいため、
国内で普通にドルが流通し、決済できるというのも、同じような現象です。

紙幣の話をもう少し。
世界で初めてつくられた紙幣は、北宋時代の「交子」だといわれています。
もともとは、民間で約束手形として使われていたものを紙幣にしたもので、
北宋ののちには、南宋の「会子」、
女真族金王朝の「交鈔(こうしょう)」や、
モンゴル、元、そして明に受け継がれています。

コレクターとしては、これらの古紙幣を入手したいところですが、
博物館以外で見ることは難しいのです。
明時代の紙幣でも700年前になりますから、
現存の可能性は、ほとんど考えられません。

以前、明時代につくられた、木製の羅漢像の内部から、
「大明通行宝鈔」が発見されたことがあります。
オーストラリアのオークションで、
羅漢像とともに、500万円ほどで落札されたということですが、
ほとんどが、紙幣の評価だったということです。


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