さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

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琉球漆にかぶれる

よしをです。
漆は、日本では、9000年以上前から使用されていて、
漆器は、「JAPAN」と呼ばれる、日本の伝統的な産業です。
身近な食器のほか、蒔絵細工や陶磁器の金継に漆は欠かせません。

漆の木は、もともと日本に自生していたという説や、
大陸経由で輸入されたという説もあり、よくわかっていないそうですが、
日本以外にも、中国や朝鮮半島で古くから栽培されていたのは確かで、
顔料や接着剤として使用されてきました。

漆の特徴は、美しさだけではなく、耐久性にあります。
縄文時代では、石器を接着するために使われ、
この時代に使われた、漆で塗った木製の櫛も発掘されています。

奈良時代になると、大陸との交流で技術は進歩し、
平安時代になると、蒔絵や螺鈿の技法が完成しました。
平安時代末期に建造された中尊寺金色堂は、
全体が螺鈿や金箔で覆われ、漆技法の集大成とも呼べる最高傑作です。

漆器は武士階級や寺社に広がりました。
僧侶が普段使いした、根来盆が有名です。
その後、江戸時代になると、全国に生産拠点が広がり、
朱塗りの椀や櫛が、庶民にも普及していきました。

中国皇帝は、周辺国の国王を任命(冊封)し、臣下として認めました。
琉球国王は、中華帝国の臣の一員としての証のために、
皇帝に朝貢をおこない、
貿易をすることを認められていました。

琉球漆器は、朝貢がはじまった14世紀ごろに発展しました。
1427年の明の記録には、宣宗が琉球から漆を購入させたとあります。
琉球は、1373年以降、500年にわたって朝貢をおこない、
盆や椀、刀剣の鞘など、多くの物品を献上しました。

琉球では、政治と信仰の結びつきが強く、
琉球王家(尚氏)の遺物には、
祭祀や儀式で、漆の加工技術で装飾された勾の首飾りや、
宴会などで使われた、「美御前御揃」という、
食籠と脚付き盆、酒器がセットになった食器が残されています。

北京の故宮博物館には、琉球からの献上品である、
大勢の客に、食事を供するための、
「東道盆(トゥンダーボン)」が所蔵されています。
写真でしか見たことがありませんが、螺鈿で加飾された大変美しいものです。

1609年の、いわゆる琉球処分によって、
薩摩藩の半ば植民地となった琉球は、
王府直営の貝擦奉行所という漆器製作所をつくり、
工匠を中国に派遣して、螺鈿、沈金、箔絵の技法を習得しました。

琉球漆器の最大の特徴は、堆錦(ついきん)の技法です。
漆と顔料を混ぜてペースト状にした「堆錦もち」で、絵柄を描くと、
甲州印伝のように、木地からぷっくり盛り上がったように浮き出ます。
木地のほうは、デイゴ、シタマキ(エゴノキ)、センダン、ガジュマルという、
琉球独自の素材が使われました。
貿易品としては、伝統的な和柄が好まれましたが、
伝統は現代につながり、最近の作品は、ハイビスカスやパパイヤなどの、
沖縄らしいモダンな柄が描かれるようになっています。

以前、沖縄を旅行した際、琉球漆の箸を買い求めました。
形状や重さが、わたしの使い勝手にピッタリで、
それ以来、琉球漆の箸を使い継いでいます。

まさに、漆にかぶれた状態(笑)。


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鰍沢

よしをです。
鎌倉時代地震や飢餓、疫病が相次ぎ、
日蓮法華経の教えによって、人びとを救済しようと考えました。
法華経に帰依すれば、末法の世から救われるとして、
幕府に対して、3度にわたって諫言しましたが、
幕府は一切耳を傾けないばかりか、反逆行為だとして、
日蓮に、伊豆、佐渡への2度の流罪が命じられました。
のちに、流罪赦免となると、熱心な日蓮信者であった南部実長の招きで、
日蓮は、現在の山梨県巨摩郡身延山に入山し、
ここで晩年の9年間を過ごしました。

身延山参りの江戸の旅人が、法輪石霊場から鰍沢の船着き場に行く途中、
激しい雪で道に迷い、山中の一軒家に一宿を求めました。
その家に住んでいたのは、
このような場所には不釣り合いの、美しい女でした。
名をお熊といい、喉元には刃物で突いたような痛々しい傷がありました。
「どこか見覚えが」と、旅人は首をひねり、
「見間違えなら申し訳ありませんが、あなたは、吉原の熊造丸屋の月の兎花魁じゃございませんか」と尋ねると、お熊は驚きました。
お熊(月の兎花魁)は、かつて心中をしそこない、
男と一緒に吉原から逃げ、ここで隠れて生活していると打ち明けました。

同情した旅人は、心づけを2両渡します。
お熊のすすめる卵酒を一口飲んで、酔いが回ってうとうとし始めると、
お熊が外出したところへ、亭主の熊の膏薬売りが戻り、
残った卵酒を全部飲み干すと、にわかに苦しみ出しました。

お熊が帰宅すると、亭主はすでに虫の息でした。
その卵酒は、旅人から金を盗むため、
お熊が痺れ薬を仕込んだものだったのです。
これを聞いた旅人は、痺れる体で雪の中に逃げ出し、
小室山で授かった毒消しの護符を飲み込むと、痺れが少し治まりました。
旅人が逃げたことを知ると、お熊は銃を取り出し、
亭主の敵とばかりに、追いかけてきます。

懸命に逃げる旅人が行き着いたのは、そそり立つ絶壁です。
眼下には鰍沢の激流が見えます。
旅人は意を決し、崖下に見つけたいかだをめがけて身を踊らせました。
落ちたはずみで、いかだはバラバラになりますが、
旅人は、一本の材木に取りすがって、急流を流れていきます。
崖の上からお熊が鉄砲を放ち、
旅人が、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えると、
弾は旅人の身体をかすめて傍らの岩に「カチン」と跳ねました。
「この大難を逃れたのは祖師のご利益。一本のお材木(お題目)で助かった」。

廓抜けをした女郎は、殴打や絶食、冬であれば、水を浴びせる水責め、
夏であれば、丸裸にされ蚊に食わせる蚊責めのようなリンチが待っています。
落語「鰍沢」は、この事件の後日談を語っていませんが、
江戸に戻った旅人は、自らを守るために、
熊造丸屋にお熊の居所を通報するべきでしょう。
居所が判明すれば、捕縛されてしまいますから、
お熊とすれば、江戸まで追いかけて、口封じのために旅人を殺すか、
あるいは一軒家を捨てて逃げるか、いずれかを選択しなければなりません。

聞き手に、そのような想像を託しながら、
「お題目のおかげ」で終わらせるところに、この噺の凄みがあります。
さすがは、名人・圓朝です。


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円空仏の魅力

よしをです。
円空は、寛永9年(1632年)、美濃国で生まれました。
生誕地は、現在の羽島市内とも、郡上郡美並村ともいわれています。
父は不明、母は、円空が5歳のとき、長良川の洪水で溺死しました。
円空は、両親を亡くして早くに出家し、
23歳のときに、諸国遊行の旅に出ました。
32歳ごろから、彫仏をはじめ、
北は北海道から、南は奈良県までを旅しました。
かれは、各地を行脚して修行を重ね、
貧困にあえぐ人びとの救済を念じて、多くの仏像を刻みました。
諸国を回った円空は故郷近くに戻り、元禄8年(1695年)、
岐阜県関市弥勒寺近くの、長良川河畔で没しました。
言い伝えによると、円空は川の岸辺に穴を掘らせ、
節を抜いた竹を通風筒として立てると、鉦を叩きながら、念仏を唱え、
即身成仏を遂げたといわれています。

円空は、生涯のうちに12万体もの仏像を彫ったといわれています。
現在確認されている円空仏は、5千数百体あり、
同じものはないといいます。
各地に残る円空仏は、拝んで病気が治ったとか、雨が降ったなど、
数々の伝説を残しています。

円空は、立ち枯れの木や流木など、
その辺にころがっているような木片に、仏を刻んでいきました。
複数の彫具を使わず、木を鉈で割り、一気に彫り上げています。
仏像は、背面がスッパリと切られ、
その背面に、梵字の銘が書かれているものが多くあります。
荒削りで、一見無造作に彫られていますが、無駄がありません。
慈愛にみちて微笑んだ顔、怒りの顔、少しおどけたような顔など、
仏さまは様々な表情をみせています。

円空仏は骨董としても人気がありますが、実に贋作が多いのです。
もし、真物であれば、大きな作品で、鑑定額は500万円程度です。
真贋のポイントのひとつは、背銘の有無だといいますが、
本物で銘のないものもあり、絶対的な条件ではありません。
贋作には、のちの習作や、本物の型取りなどがありますが、
同じものはふたつとしてないので、鑑定も難しいのでしょう。

円空が、12万体ともいわれる仏像を彫ったのは、
母の菩提を弔うためだったといわれています。
最後に、母が死んだ長良川河畔を入滅の場所に選んだことからも、
それが伺えます。


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贋作の需要

よしをです。
骨董蒐集をしていると、贋作との出会いは避けられません。
世の中には、真面目な品よりも、圧倒的に贋作のほうが多く、
審美眼とともに、あるいはそれ以前に、
真贋の目利きができるかどうかが、骨董蒐集のポイントです。

先日、思い切って、贋物をまとめて不燃物ゴミに出しました。
何度も残念な品を入手し、おそらくニセモノだろうと疑いながらも、
あるいはホンモノではないかという一縷の望みとスケベ心をもって、
未練がましく所持している陶磁器が、手元にまだ数点残っています。

贋物には、当初から人を騙す目的で作られたものから、
習作の類いまで、来歴にはさまざまな事情があります。
以前もお伝えしましたが、
真贋を見定めるのは、買い手の能力によるところが大きく、
意図的に贋物を売りつけたという立証が難しいため、
その品を売った骨董店に、責任や補償を求めることは難しいのですが、
骨董蒐集家にとっては、まったく価値のない古美術風の品々にも、
一定の需要があるということですから、困ってしまいます。

たとえば、ホテルや外国人向けの宿、古民家カフェのような場所では、
インテリアとしての需要があります。
あくまでインテリアの一部なので、本物にこだわる必要はありません。
インテリアの市場のなかで、物品が流通するうちは問題ないのですが、
その品が一旦、骨董のマーケットに紛れ込んでしまうと、
騙されるのは自業自得とはいえ、
多くのコレクターに、悲劇を及ぼすことになります。

ニューヨークのメトロポリタン美術館では、
美術品を購入する際、学芸員がチェックリストにしたがって、
厳重な審査をおこなっていて、
学芸員が、チェックリストに一点でも疑義を申告すれば、
理事会が購入を認めないという仕組みになっています。

審査項目のトップ項目は、
「その美術品をみた瞬間に感じたことを、最初に浮かんだ言葉で書け」
というものです。
科学判定などは、あとからついてくる、いわば結果論であり、
それよりも、当該の美術品そのものが、感動を想起させるかどうかが、
美術品としての価値であると、メトロポリタンは考えています。
そのために、人間の直観力を重要視し、
初見の感想を具体的に記述させるという手順を踏んでいるのです。

わたしが信頼する、著名な骨董店主が大切にしている感性は、
その品を目の前にして、違和感を覚えるかどうかだといいます。
店主曰く、違和感とは、いわゆる「約束事」とは異なる、
物を無数に見てきたことに由来する感覚であるといいます。
メトロポリタンが重視している審査眼と同じ意味でしょう。

わたしのような凡百の煩悩まみれのコレクターの場合は、
せいぜい、信頼できる専門家に贋物の指摘を受けたうえで、
あらためてその品を眺めて、
自らの感覚と照合させることを繰り返すことになりますが、
いつまでたっても、煩悩とのせめぎ合いです。
だから骨董は面白いともいえますが、なにせ出費の痛みが…(涙)。
ましてや、感動や違和感の境地となると、一生到達しそうにありません。


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古染付の美的感覚

よしをです。
明時代末期、女真族の侵攻や、秀吉の朝鮮出兵倭寇などにより、
国は乱れ、文化も衰退しました。
明の主要な輸出品でもあった陶磁器の生産地であった、
景徳鎮の官窯(国が管理した窯業)は朽ち果て、
そのあとに民窯ができました。

この時期の景徳鎮の民窯で焼かれた陶磁器を、日本では古染付といい、
国内で普段使いされたほかは、
作品のほとんどが、江戸時代初期の日本に輸出されました。
多少の時代のズレはありますが、
明の万暦帝崩御し、明朝が崩壊した期間(1620~44年)を、
古染付がつくられた時代とされています。
日本では、この舶来品を「南京染付」と呼んでいましたが、
江戸時代後期に、「清朝染付」が新渡物として輸入されたため、

のちに古染付と呼ばれるようになりました。

古染付は、文鎮や茶碗、香合、水差しや花生け、
大小の皿や鉢、向付(小鉢)など、種類が豊富です。
絵付けは、形にとらわれない自由で洒脱な作風で、
人物や草花、動物などが描かれ、日本人の感性にフィットしました。
器体の裏底には、
「大明天啓年製」などの年号の銘が書かれています。
器体と釉薬が合致せずに、
釉薬が口辺で、とことどころ虫食いのように剥がれているのが、
古染付の最大の特徴です。
あまり上等な釉薬が使われていないため、釉薬の収縮によって、
胎土がところどころ、むき出しの状態になっているのです。

虫食いや洒脱な呉須(ごす)の絵付けのほか、
砂付きの高台と、高台内の鉋による削り跡が、古染付の魅力です。
本来であれば、美的観点からは欠陥ともいえるこれらの特徴を、
日本の茶人たちは、この拙さこそ味であり、
自由で面白い手法であると絶賛し、鑑賞の対象にしました。
茶人たちのマニアぶりには呆れてしまいますが(笑)、

中国では、精緻で豪華、完成度の高い造形を求める傾向が強く、
染付においては、元時代の染付を最上級とし、清時代を良しとします。
したがって、中国人の美意識で、明末の古染付を鑑賞した場合、
これらの作品は、伝統ある中国陶磁器の歴史の中において、
あるいは汚点であると感じるかもしれません。

古染付は、中国国内で普段使いされた茶碗や皿などの食器のほかは、
日本に輸出された作品が残るだけです。
明時代の庶民の普段使いの雑器が、
現代まで、完全な形で残ることは考えられないので、
中国で発掘あるいは発見されたという作品は、
もし、それが完品ならば100%偽物で、最近つくられたものです。

古染付は、観賞用陶磁はともかく、普段使いできるような小皿なら、
それほど高価でもありませんから、求めやすいです。
大量生産品から、古染付の小皿に替えて、酒のつまみなどをのせると、
いつもの晩酌とは、趣が違ったものになるでしょう。


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西欧の陶磁器

よしをです。
西欧への陶磁器の伝播には、大きくふたつの流れがあります。
ひとつは、現在のイランを起点とするペルシア陶器で、
もうひとつは、中国磁器です。
ペルシア陶器は、イスラム帝国の拡大とともに東西に広がり、
西欧へは、エジプト、モロッコから地中海を渡り、ポルトガルに伝わりました。
一方、中国磁器は、
西欧へは、シルクロード経由で、かなり遅れて到達しました。
当時のヨーロッパには、磁器は存在せず、
白く、光を通す磁器は、東洋の神秘とされ、憧れの宝物でした。

大航海時代に、東インド会社から明の中国磁器が大量に輸入され、
ヨーロッパ各国では、
さかんに中国磁器の「写し(コピー)」がつくられました。
明が衰退して輸出が滞り、日本の伊万里焼(有田焼)が輸入されると、
オランダのデルフトでは、「柿右衛門写し」などが作陶され、
ジャポニズムとしてもてはやされました。

これらの「写し」は、磁器ではなく、不透明な白い釉薬をかけた陶器でした。
ザクセン王国アウグスト2世は、
錬金術師のヨハン・フリードリヒ・ベトガーに、磁器の開発を命じました。
ベトガーは、領内で磁器の原料であるカオリンを見つけ、
試行錯誤ののち、ついに白い磁器(マイセン)の開発に成功しました。

少し遅れて、イギリスでは、骨灰をつかった軟質磁器が開発されました。
軟質磁器は、硬質磁器よりも透光性にすぐれ、
絵付けが容易であるという特質をもっていました。
この磁器は、英国王室の庇護を受けて発展し、
ボーンチャイナ」という名前がつけられました。

陶磁器の本歌(オリジナル)に倣ってコピーすることは、
世界各国でおこなわれています。
たとえば、高麗青磁は、景徳鎮の青磁の写しであり、
ベトナムにも、景徳鎮を模した安南青磁があります。
日本でも、古くは、京で焼かれた唐物写しや、
李朝の粉青沙器を写した唐津焼、安南(ベトナム)写しなどがあり、
ノリタケボーンチャイナも、イギリス磁器の本歌写しです。

磁器の作陶技術は、最新技術であり、利権の塊でした。
日本においては、
朝鮮出兵によって、九州諸藩の軍が朝鮮陶工を多数拉致し、
肥前や薩摩など、各地で、国産の磁器を開発させました。
一方、マイセン磁器を発明したベトガーは、
西欧における磁器製法の独占を目論んだアウグスト王によって、
マイセンのアルブレヒト城に幽閉されました。
研究によって有毒物質を吸入し続けたベトガーは、
やがて視力を失い、アルコールに溺れ、37歳で死去しています。


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縄文へのいざない

よしをです。
青森市に位置する、三内丸山遺跡は、
紀元前4000年~3000年ごろの縄文時代に栄えた、
日本最大級の集落跡で、
1000年間もの長期にわたって、定住生活が営まれていました。

遺跡の発掘調査により、
大小の竪穴式住居や墓、ゴミ捨て場、道路跡などが発見され、
膨大な量の縄文式土器や石器、
土偶翡翠、黒曜石などが出土しています。
また、集落では、ひょうたん、ごぼう、豆、栗などが、
栽培されていたこともわかりました。

縄文時代の日本列島の人口は、最盛期に25万人程度に達し、
縄文晩期には、8万人に減少したとされています。
縄文時代は、現在よりも気候が温暖でしたが、
紀元前2200年ごろに突然、寒冷化しました。
同時期に、人びとは三内丸山から忽然と姿を消すのですが、
気候変動と、三内丸山の盛衰は完全に合致しています。

三内丸山から発掘された、翡翠糸魚川産、黒曜石は北海道産であり、
かれらは、船を使って列島各地と交易をおこなっていたようです。
さらに、国内に限らず、大陸との交流の可能性も示唆されています。
円筒土器や、耳飾りの形状から、
中国の遼河文明との類似が、指摘されているのです。

「縄文」というネーミングは、
エドワード・モスが、大森貝塚から発見した土器の文様に由来します。
世界最古の土器は、約2万年前の中国江西省仙人洞から発掘された、
土器の破片だといわれていますが、
原型が再現できる土器としては、
今から1万6000年前につくられた、縄文土器が、
世界的にみても、最古の焼き物に属しています。

縄文式土器土偶翡翠などは、古美術品として流通しています。
縄文土器として、もっとも有名なのは、火焔式土器ですが、
市場に出ているものは、すべて模造品です。
マニア垂涎の的は、遮光器土偶で、何点かは国宝に指定されましたが、
こちらは、ときどき骨董店で、本物に出会うことがあります。
縄文末期の亀ヶ岡遺跡(青森県)由来のものが多いそうですが、
残欠であっても、かなり高価なものです。

土偶には、よくわからないことも多いのですが、
呪術的な意味合いが込められているといわれています。
古代、女性の出産は命がけでした。
妊婦の30%が、出産がうまくいかずに亡くなったといわれています。
アイヌには、母子ともに亡くなった妊婦の腹を割き、子どもを取り出して、
女性の腕の中に抱かせて、一緒に葬る風習があったそうですが、
縄文土器土偶には、腹に縫ったような文様のあるものが多いのです。

縄文土器の鑑定方法は、きわめて簡単です。
土器を水で濡らせて、強い土臭がすれば、本物だと断定していいでしょう。
あたらしく焼かれたものに、
何千年も土の中に埋まっていたような土臭をつけることは不可能です。
以前、そのような光景を見たことがあるのですが、
土器に唾をつけてこするのは、やめていただきたいものです。


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