さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

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ジャズからポップスへ

よしをです。

 

ナット・キング・コールは、本名をナサニエル・アダムス・コールといい、

バプテスト派の神父である父親のもと、

1919年に、アメリカ アラバマ州に生まれました。

4歳のときに、コール一家はシカゴに引越しし、

教会の聖歌隊で活躍していた母親から、

ピアノの手ほどきを受けたのが、ナットの音楽との出会いでした。

 

ルイ・アームストロングや、キング・オリバーに憧れ、

地元シカゴで、ジャズを学んだナットは、

ジャズカルテットを編成し、ナイトクラブなどで演奏しました。

 

ある日、かれらのバンドが、クラブで演奏していると、

白人の酔客が、ナットに、歌を歌うようにいいました。

ナットは、客の要求通りに、ピアノを弾きながら歌います。

観客は大喜びし、以後のステージでは、

ナットの歌が披露されることになりました。

その後、レーベルの目に留まり、

ナットは、メジャーデビューすることになるのですが、

かれの音楽が、ジャズからポップスに転身したことで、

黒人社会からは、批判されることになりました。

 

ナットは、大スターになったあとも、ナイトクラブのステージに立ち続けます。

ステージで演奏し、歌うことが、かれにとって、何よりの喜びでした。

人種差別の激しい時代にあって、

度々差別を受け、ステージ上で観客にヤジられることもありましたが、

ナットは、一度として、反抗的な態度をとることはなかったそうです。

 

かれのニックネームである、「キング」についての逸話が残っています。

ある晩、ナットが、ナイトクラブで演奏していたとき、

客のひとりが、クラブの飾りつけを外して、

かれのために王冠をつくって、かぶせたことがあったそうです。

おそらく、客が黒人のナットをバカにして、ふざけてやったものでしょう。

こんな悪ふざけをすれば、

マイルス・デイビスや、ルイ・アームストロングなら、

王冠を相手に投げつけ、ケンカになっていたかもしれません。

しかし、ナットは、王冠をつけたまま、笑顔で演奏を続けたそうです。

 

ナットは、暴力やドラッグ、ギャンブルには一切かかわらず、

黒人の地位向上を目指す、公民権運動とも無縁でした。

それゆえ、黒人社会では、あまり評判がよくなかったようですが、

わたしは、かれは、

音楽を通じて、人類の平等を表現していたのだと信じています。

ナット本人は、

「ただ、歌や演奏が好きなだけだ」、というかもしれませんが…。

 

ナットは、5人の子どもに恵まれました。

そのひとりが、のちに歌手となる、ナタリー・コールです。

ナットが1961年に録音した歌に、

30年後にナタリーがデュエットした、「アンフォゲッタブル」は、

1991年に発表され、1992年のグラミー賞を受賞しています。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。