ゼロ戦と新幹線
よしをです。
日米開戦時、世界を驚愕させた、
若い技術者たちでした。
戦闘機開発を命じられたとき(昭和12年)、
開発リーダーの堀越二郎は、わずかに34歳でした。
終戦後、航空機の生産が禁止された日本にあって、
20~30代の優秀な航空機技師たちは、あるものは自動車メーカーへ、
あるものは国鉄へ、あるものは電機メーカーへと、転身していきました。
「夢の超特急」といわれた、東海道新幹線の開発にも、
多くの航空技術者が関わっています。
戦闘機開発において、
飛行機の高速化にともない、機体が空中分解をおこす事故が多発しており、
その原因である振動を克服することが、一番の課題でした。
研究者たちは、研究を重ね、ついに、振動の克服に至ります。
この経験が、高速鉄道の振動を制御する研究に生かされ、
戦後になり、新幹線の誕生となって結実したのです。
ナチスドイツが降伏し、米ソ両国は、ドイツの技術を競って奪いました。
アメリカは、V2ロケットの地下工場や、メッサーシュミットの工場、
シーメンス社などを抑えると、1000人以上の技術者や科学者と、
ロケット、ジェットタービンの現物や、
電子工学、科学、原子力関係の資料などを、接収しました。
事務所の備品や機械道具類に至るまで、手当たり次第に接収しました。
それらは、大きなものは分解されて、箱詰めされ、モスクワに送られました。
占領地域にいた数千人の科学者や技術者は、
「生きる戦利品」として家族とともに拉致され、ソ連国内に搬送されました。
この点、アメリカは、拉致ではなく、本人と合意のうえ、
アメリカへの移住をすすめているので、まだ人道的だったといえます。
のちに、このエンジンは改良され、
ミグ戦闘機やスホーイ戦闘機に搭載されることになります。
また、ソ連のロケット開発は、
ドイツ人技術者の協力により、飛躍的に進歩しました。
このように、
先端技術国を誇っていたドイツは、戦後の米ソの収奪によって、
物資だけでなく、人材的にも、焼け野原になってしまいました。
日本においても、先端兵器の設計図などは、米軍に接収されていますが、
日本の技術者が、アメリカに渡ることは、ほとんどありませんでした。
ドイツ人エリートは、英語やフランス語など、言語能力に優れていますが、
日本人は、ほとんど英語や外国語が話せなかったからです。
したがって、戦後まもなくの焼け野原にも、優秀な人材は残っていました。
その点、ドイツに比べて、日本は恵まれていたといえるでしょう。
偶然に感謝しなければいけませんね。
今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。