よしをです。
近江毛野の軍を遣わしますが、
毛野軍は、筑紫国造磐井によって、九州北部で阻まれました。
しかし、翌年には磐井の軍勢は鎮圧され、首魁の磐井は戦死しました。
この事件を、磐井の乱といいます。
謎の多い事件なのですが、
実在の人物、実在の事件であったことは間違いなさそうです。
これまで日本史では、それほど大きな扱いがされていませんでしたが、
今後、研究がすすんでいくと、うれしく思います。
この時代の国内情勢は、朝鮮半島情勢を巻き込み、
各国の微妙な覇権争いと裏表に、展開してきました。
古代日本と半島とのかかわりにおいては、
663年に、白村江の戦いによって、日本は唐と新羅の連合軍に敗れ、
最終的に、朝鮮半島の権益を失うことになるのですが、
磐井の乱は、それより100年以上前の話です。
このとき、半島を目指した近江毛野の軍勢は、6万人という記録があります。
当時としては、大変な大軍勢です。
進軍の目的は、任那に渡って、
火国(佐賀、熊本)と豊国(福岡)を制圧して海路を封鎖し、
毛野の軍勢を阻みました。
磐井は、毛野との戦いでは、半島への渡航を阻止しましたが、
翌年に、朝廷から追討軍を送られ、敗死しました。
磐井の子・筑紫君葛子は、糟屋屯倉(福岡県の一部)を朝廷に献上して、
死罪を逃れたとされています。
この時代の日本は、わたしの想像では、
中央集権的な統一国家は、まだ完成しておらず、
磐井のような地方豪族が、点在していたと想像しています。
前帝である武烈天皇に継嗣がいなかったため、
越の国(越前)を治めていた、武烈の遠縁にあたる継体天皇が、
跡を継いだことになっています。
この継体天皇というのが謎に包まれた人物で、
実は、天皇家の血縁ではなく、ただの地方豪族だった、
つまり、王朝交代がおこなわれたという説が根強くあります。
この先は、わたしのフィクションです。
継体天皇は、越の国ではなく、対岸の大陸からやってきました。
半島南部(任那)は、日本が支配していましたが、
高句麗国内の権力抗争に敗れた豪族、
あるいは、新羅と戦って敗れた将軍だったかもしれません。
継体天皇は、亡命を余儀なくされます。
一族郎党とともに、海を渡って越前に上陸したのち、
先進技術と知略で、かの地を制圧します。
武烈を亡ぼし、仁徳天皇系の王朝を断絶させ、
継体王朝を樹立しました。
継体王朝は、支配者としての正当性や権威が希薄で、不安定な状態です。
人や物資の往来も盛んで、統治も確定していない、混沌状態にあり、
磐井のように、新羅と通じた豪族や、百済の息がかかった豪族が、
群雄割拠して地方の覇権争いをするという、戦国時代の様相を呈しています。
継体天皇は、一歩間違えば、自分が武烈を亡ぼしたように、
先進技術や大陸の情報が集まる、九州の有力豪族から、
攻められるかもしれないという危惧を抱いていました。
百済と同盟を結び、大軍を率いて、九州経由で、新羅を攻めるという情報に、
九州の豪族は色めき立ちます。
継体天皇が半島に出兵するというのは、フェイクでした。
実は、九州における新羅系の影響を一気に排除するために、
遠征をおこなったもので、
まんまとあぶりだされたのが磐井だったというわけです。
磐井を亡ぼすついでに、ほかの有力豪族も一掃し、
継体天皇の九州制覇は完了しました。
その後は、大和朝廷の中央集権がすすみ、
統一国家としての日本が完成してゆくのです。
磐井の乱は、教科書的には、小さなトピックにすぎませんが、
実は、日本を統一国家へと導く、大きな礎になったかもしれません。
それには、継体天皇の天才が発揮されたはずで、
想像すると、わくわくします。
今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。