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古代史からの招待状

よしをです。 

 

527年、大和朝廷は、遠征軍を朝鮮半島に派兵するために、

近江毛野の軍を遣わしますが、

毛野軍は、筑紫国造磐井によって、九州北部で阻まれました。

しかし、翌年には磐井の軍勢は鎮圧され、首魁の磐井は戦死しました。

この事件を、磐井の乱といいます。

 

謎の多い事件なのですが、

古事記日本書紀風土記にも記述がありますので、

実在の人物、実在の事件であったことは間違いなさそうです。

これまで日本史では、それほど大きな扱いがされていませんでしたが、

今後、研究がすすんでいくと、うれしく思います。

 

この時代の国内情勢は、朝鮮半島情勢を巻き込み、

各国の微妙な覇権争いと裏表に、展開してきました。

古代日本と半島とのかかわりにおいては、

663年に、白村江の戦いによって、日本は唐と新羅の連合軍に敗れ、

最終的に、朝鮮半島の権益を失うことになるのですが、

磐井の乱は、それより100年以上前の話です。

 

このとき、半島を目指した近江毛野の軍勢は、6万人という記録があります。

当時としては、大変な大軍勢です。

進軍の目的は、任那に渡って、

新羅に奪われた南加羅を回復しようというものでした。

日本書紀によると、磐井は、新羅と密通し、

火国(佐賀、熊本)と豊国(福岡)を制圧して海路を封鎖し、

毛野の軍勢を阻みました。

磐井は、毛野との戦いでは、半島への渡航を阻止しましたが、

翌年に、朝廷から追討軍を送られ、敗死しました。

磐井の子・筑紫君葛子は、糟屋屯倉(福岡県の一部)を朝廷に献上して、

死罪を逃れたとされています。

 

この時代の日本は、わたしの想像では、

中央集権的な統一国家は、まだ完成しておらず、

磐井のような地方豪族が、点在していたと想像しています。

 

ときの天皇は、継体天皇です。

前帝である武烈天皇に継嗣がいなかったため、

越の国(越前)を治めていた、武烈の遠縁にあたる継体天皇が、

跡を継いだことになっています。

この継体天皇というのが謎に包まれた人物で、

実は、天皇家の血縁ではなく、ただの地方豪族だった、

つまり、王朝交代がおこなわれたという説が根強くあります。

 

この先は、わたしのフィクションです。

 

継体天皇は、越の国ではなく、対岸の大陸からやってきました。

朝鮮半島は、高句麗新羅百済の3国に加えて、

半島南部(任那)は、日本が支配していましたが、

継体天皇は、おそらく、高句麗出身であり、

高句麗国内の権力抗争に敗れた豪族、

あるいは、新羅と戦って敗れた将軍だったかもしれません。

 

継体天皇は、亡命を余儀なくされます。

一族郎党とともに、海を渡って越前に上陸したのち、

先進技術と知略で、かの地を制圧します。

そして、武烈天皇の悪政で混乱する畿内を攻めて、

武烈を亡ぼし、仁徳天皇系の王朝を断絶させ、

継体王朝を樹立しました。

 

継体王朝は、支配者としての正当性や権威が希薄で、不安定な状態です。

一方、この当時、任那を含む朝鮮半島南部と九州北部は、

人や物資の往来も盛んで、統治も確定していない、混沌状態にあり、

磐井のように、新羅と通じた豪族や、百済の息がかかった豪族が、

群雄割拠して地方の覇権争いをするという、戦国時代の様相を呈しています。

継体天皇は、一歩間違えば、自分が武烈を亡ぼしたように、

先進技術や大陸の情報が集まる、九州の有力豪族から、

攻められるかもしれないという危惧を抱いていました。

 

継体天皇は、新羅に恨みを抱いていました。

百済と同盟を結び、大軍を率いて、九州経由で、新羅を攻めるという情報に、

九州の豪族は色めき立ちます。

 

継体天皇が半島に出兵するというのは、フェイクでした。

実は、九州における新羅系の影響を一気に排除するために、

遠征をおこなったもので、

まんまとあぶりだされたのが磐井だったというわけです。

 

磐井を亡ぼすついでに、ほかの有力豪族も一掃し、

継体天皇の九州制覇は完了しました。

その後は、大和朝廷の中央集権がすすみ、

統一国家としての日本が完成してゆくのです。

 

磐井の乱は、教科書的には、小さなトピックにすぎませんが、

実は、日本を統一国家へと導く、大きな礎になったかもしれません。

それには、継体天皇の天才が発揮されたはずで、

想像すると、わくわくします。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。