さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

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紀伊国屋文左衛門と出光佐三

よしをです。

 

紀伊国屋文左衛門は、1669年に、紀州に生まれ、

長じると、さまざまな品を扱う、商人になりました。

スタートは、店舗をもたない、行商だったのでしょう。

 

文左衛門が20代のある年、紀州では、ミカンが大豊作でした。

収穫したみかんを江戸に運ぼうとしますが、

長嵐のため、運べません。

みかんは、「足の短い」商品です。

江戸に送られるはずのみかんは、

上方の商人に買いたたかれて、価格が暴落してしまいました。

 

江戸では、毎年、鍛冶の神様を祝う、「ふいご祭り」に、

鍛冶屋の屋根から、

みかんをばらまく風習があったのですが、

紀州からミカンが届かず、価格が高騰していました。

 

文左衛門は、これに目をつけました。

方々で借金をして、暴落したみかんを買い集め、

荒くれの船乗りを集めて、嵐の海に船出しました。

一行は、何度も転覆の危険をかいくぐりながら、

ようやく江戸に到着し、みかんを届けることができました。

 

大阪で洪水がおきて、

伝染病が流行していることを知った文左衛門は、

帰りの船に、塩鮭を満載しました。

そして、大阪で、「流行り病には塩鮭が効く」という噂を流し、

塩鮭を売り切ったのです。

こうして、しがない小商人の文左衛門は、

巨万の富を手にしました。

 

小説「海賊とよばれた男」のモチーフとなった、

日章丸事件は、

1953年(昭和28年)に発生しました。

第二次大戦後、イランの油田は、イギリス資本が牛耳っていて、

イランは、勝手に石油を売ることができませんでした。

そこで、イラン政府は、

1951年に国内の油田を国有化することを宣言し、

イギリスとの全面対決に突入しました。

 

一歩間違えば、戦争になるかもしれない状況にあって、

出光佐三は、大胆にも、

こっそりと石油を輸入することを考えます。

このときに使われたタンカーが、日章丸でした。

日章丸はイランで石油を積み込み、

ホルムズ海峡の、機雷や

イギリス海軍の監視の目をかいくぐって、

無事に日本に帰国しました。

 

イギリスの石油会社が、出光興産を訴えましたが、

イギリス資本の石油独占に反対するアメリカが、

出光側に立つなど、

世界情勢に助けられる形になり、

イギリス側は、訴訟を取り下げざるを得ませんでした。

 

イランは、油田の国営化に一歩前進し、

日章丸事件のあと、日本とイランは国交を再開しました。

以後、出光への感謝とともに、

イランは一貫して、日本に対して好意的なのです。

 

出光佐三の脳裏には、

みかんを満載して、荒波に乗り出した、

紀伊国屋文左衛門の姿が、

自分とだぶって見えたことでしょう。

日章丸がイランから石油を持ち帰ったあと、

目立たない中小企業だった出光興産は、

世界的な大企業へと進化しました。

 

巨万の富を得て、

江戸に移住した、紀伊国屋文左衛門ですが、

上野寛永寺の造営でも、巨利を得て、

幕府御用達の材木商になりますが、

好事魔多しのことわざ通り、

大火で屋敷や材木をすべて失って、材木商を廃業しました。

その後、幕府から銅銭の鋳造を請け負いますが、

質の悪い銭しかできず、

すぐに運用が停止されてしまったために、大損失を被り、

文左衛門は、商売への意欲を失ってしまったといいます。

 

その後は隠居生活に入り、紀伊国屋は息子が跡をつぎますが、

息子に商才なく、紀伊国屋は没落してしまいました。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。