さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

起業とか資格とか。趣味や思い出話など いろいろランダムに

蕎麦好き


よしをです。
ウイルスや細菌などの遺物が体内に入ると、
その物質を攻撃する免疫作用が発動します。
この免疫作用が、本来、無害の食品に反応する場合があります。

蕎麦アレルギーの症状は、
ほかの食品アレルギーに比べて、重篤になる場合が多く、
食べた直後に、喘息発作やじんましんなどの症状が併発し、
アナフィラキシーショックを起こす場合があります。
蕎麦粉を吸入するだけでも喘息発作が起きたり、
蕎麦とうどんの両方を提供する店では、同じ釜で茹でられているため、
うどんを注文しても、アレルギー反応が起きる場合もあり、
注意が必要です。
なかには、蕎麦屋の前を避けて、道を歩く人もいるそうで、
蕎麦好きのわたしとしては、本当にお気の毒に思います。

アレルギーは、大抵、子どものころに発症します。
ほかの食品の場合、年齢を重ねるごとに、耐性がついて、
アレルゲンの食品を徐々に食べられるようになることもあるのですが、
蕎麦の場合は、
アレルギーと一生付き合わなければならないケースがほとんどです。
結構、やっかいな食品です。

蕎麦も、もとをたどれば大陸由来の植物で、
原産地は中国雲南省からヒマラヤにかけての一帯だと判明しています。
日本国内での蕎麦の栽培は、縄文時代まで遡り、
高知県では、9000年前の遺跡から蕎麦の花粉がみつかっています。
元正天皇(680~748年)が発した詔には、
「日照り続きで稲の収穫が見込めないので、蕎麦を植えるように」とあり、
797年の「続日本紀」にも、蕎麦の栽培の記録があります。
蕎麦粉を練った「そばがき」や「そばもち」が、古来の蕎麦の食べ方で、
のちに、蕎麦は麺となって普及するのですが、
この大発明のルーツが、いつ、どこなのかは、はっきりしていません。

江戸の蕎麦の普及は、夜蕎麦売りが貢献しました。
明暦3年(1657年)に発生した振袖火事といわれる大火は、
江戸の町の60%を焼け野原にし、
町の復興のために、全国から多くの労働者が流入しました。
そのため、急速に外食需要が高まり、市中に煮売りが増え、
夜中に屋台で蕎麦を売り歩く、夜蕎麦売りが現れました。
いわゆる「夜鷹蕎麦」といわれる屋台が、夜中に蕎麦を売り歩きました。
供されたのは、ざる蕎麦ではなく、汁蕎麦です。
夜鷹(街娼)が食べるような粗末なものでしたが、
ほかの飲食店が閉まっている夜間(およそ21時から明け方まで)まで、
営業しているので、重宝されました。

当時の屋台は、車輪のついたものではなく、ひとりで担ぐものでした。
荷箱には水や火鉢、食器などが入っていますから、
担いで売り歩くのは、かなりの重労働です。
海苔をのせた「花巻」や、ちくわをのせた「しっぽく」が、
屋台の主力商品で、
値段は、十六文と決まっていて、「二八蕎麦」とも呼ばれていました。
「二八」の由来は、「ニハチジュウロク」の九九のもじり、
あるいは、蕎麦粉8割、小麦粉2割の意味ともいわれています。

時代は下がり、現代では、蕎麦の実は高級品となりました。
町の立ち食い蕎麦屋の場合、蕎麦粉は2割か、それ以下ですから、
蕎麦というよりは、
ほとんど、蕎麦風味のうどんといったところでしょうか。


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。