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上杉謙信の苦悩

よしをです。
古代インドのヒンズー教の神・クーベラは、
仏教に伝わって、毘沙門天になりました。
当初、インドでは財宝神とされ、武神のイメージはありませんでしたが、
毘沙門天は、中央アジアから中国に伝わる過程で戦いの神となり、
持国天増長天広目天と並ぶ四天王の一尊となりました。

日本に伝わると、四天王では多聞天と呼ばれ、
独尊神としては、毘沙門天(あるいは摩利支天)と呼ぶのが通説です。
国内における、毘沙門信仰の発祥は、平安時代鞍馬寺です。
幼少期の源義経が預けられていたのは偶然でしょうが、
奇妙な縁を感じます。
毘沙門天は、中世から近世を通じて、恵比寿、大黒などと並ぶ、
七福神の一神として、庶民の信仰を集めました。

戦国時代になると、諸大名は神仏に帰依し、戦勝を願いました。
代表的なものは、達磨大師が創始した禅宗で、
武田信玄臨済宗に帰依し、諏訪大社で戦勝祈願をおこないました。
また、徳川家康は浄土宗に帰依し、
戦場では、「厭離穢土欣求浄土」の旗印を掲げました。

関東管領上杉憲政が、
北条氏康に破れて、助けを求めて越後に逃げ込んだときから、
上杉謙信の正義の戦いが始まりました。
謙信は、自身を摩利支天(毘沙門天)の生まれ変わりだと信じていて、
戦いに臨むと、その旗印には、「毘」の一文字が墨書されていました。

謙信は、1555年に大徳寺の門をたたき、
「宗心」の号を名乗り、「三帰五戒」の戒律を授かりました。
「三帰五戒」とは、仏法僧の三宝に帰依し、
不殺生、不愈盗、不邪淫、不妄語、不飲酒という、
5つの戒めを誓うものです。
大徳寺で受戒したのは、最初の川中島合戦の直後のことであり、
戦国武将として、本格的に活躍していた時期に当たります。
五戒のうち、とくに不殺生は、武将として生きるには致命的なもので、
実際に、このころ謙信は、
戦国武将からの引退を考えていたようなのです。

謙信が、「三帰五戒」の戒律を授かり、引退の道を選んだのは、
越後国内の内紛や、隣国との戦いに進展がみられないため、
嫌気がさしたからだといわれています。
謙信は、毘沙門堂にこもることが多くなり、
ついには、家臣に出家の意向を伝えて、高野山を目指します。
しかし、旅の道中で家臣が追いつき、必死に翻意を求めたため、
謙信は、出家を思いとどまったといわれています。

謙信は、毘沙門天の庇護のもと、その後も戦いを重ねましたが、
かれの戦う相手は、不義な対象に限られました。
関東や信濃への遠征は、
一定の戦果を残しましたが、得るもののない戦いでした。
配下の武将や豪族にしてみれば、
報酬がもらえない義戦など、何の価値もありません。
領内で叛乱が頻発していたのは、そのことが原因であり、
国が治まらないのは、謙信の自業自得でもあったのです。
謙信は、戦争の天才ではありましたが、その才能は局地戦に留まり、
為政者としても、残念ながら破綻していました。

しかし、そんな謙信の生き様は、のちの上杉家に受け継がれます。
義をもって戦国の世を生きることは無論のこと、
平和な時代においても、義に生きることは難しいものですが、
謙信亡き後、かれの教えは、上杉家の心の支えとなり、
関ケ原では叛乱軍とされながらも、幕末まで、米沢で存続しました。
上杉家は、義を重んじる大名として、信頼を得たのです。


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