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身に毒が回る

よしをです。
院政を確立し、天皇の父親として絶大な権威を振るった白河法皇にとっても、
賀茂川の水、双六の賽、山法師」の3つは、
如何とも制御しがたいものでした。

山法師、すなわち僧兵とは、武装した僧侶のことです。
743年に墾田永年私財法が施行され、土地の所有が認められてから、
日本各地で、土地をめぐる争いが続いていました。
中央の貴族や地方豪族のほか、
各地の有力な寺院も私有地を増やし、莫大な私財を手に入れていました。

寺社のなかでも、とくに勢力を拡大したのは、
南都北嶺の異名をもつ、南の興福寺と北の延暦寺です。
興福寺藤原氏の氏寺であり、
比叡山密教という最先端の思想をベースにした天台宗を信仰し、
平安貴族に絶大な人気を博していました。

かれらは自らの財産を守るために、僧侶たちが武装して僧兵を組織し、
「強訴(ごうそ)」という手段で、朝廷に圧力を加えました。

朝廷が恐れたのは直接的な武力ではなく、
神仏の権威をかざして、強引に無理難題を要求する行為でした。
平安仏教は、神仏習合により、混然一体の信仰体系を構築していました。
興福寺春日大社延暦寺日吉神社の神木や神輿をもって、
朝廷に押しかけると、信心深い朝廷や貴族は縮み上がってしまいました。
平将門崇徳上皇の怨霊が信じられていた時代ですから、
人びとは祟りや穢れといったタブーに敏感だったのです。

白河法皇は僧兵の強訴に対抗するために、
北面の武士」という、独自の防衛組織をつくりました。
これが武士の誕生であり、白河法皇がとくに目をかけたのが平家でした。

日本政府は日米安保体制を構築する際、反対勢力に対抗するために、
反社会勢力を動員しました。
日米安保条約は、日本国内で内乱が発生した場合には、
アメリカ軍が治安介入するという内乱条項を含んでいました。
左翼勢力が反応した最大の理由が、この内乱条項でした。

アイゼンハワー大統領の来日にあわせて、
連日10万人規模のデモがおこなわれたため、自民党安全保障委員会は、
右翼団体やヤクザ、テキ屋、旧軍人、宗教団体などを動員し、
左翼の集会に殴り込みをかけさせました。
当時の警視庁所属の警官は24000人、
錦政会(のちの稲川会)や、関東尾津組を中心とした博徒が18000人、
テキ屋10000人、その他をあわせて最終的に4万人を動員しました。

結局日本国内の混乱を危惧して、アイゼンハワー来日は取りやめになり、
条約発効をもって、岸政権は退陣しましたが、
政府が反社会勢力の力を借りたことは、のちに大きな禍根となりました。

白河法皇が組織した北面の武士は、
のちに勢力を伸ばして武士政治のもととなり、貴族政治は終焉を迎え、
岸伸介が利用した反社会勢力は、
街宣右翼や広域暴力団の大規模化を促しました。

毒をもって毒を制するつもりが、そうは上手くいかないものです。
これらの例を、「身に毒が回る」といいます。


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