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桂文楽と養子

よしをです。
八代目桂文楽は、まことに不器用な芸人で、
芸人にとって大きな武器となる、とっさのアドリブができず、
20分の噺を15分に縮めることや、
15分の噺を20分に延ばすこともできませんでした。
そんな文楽が名人といわれる所以は、噺の完成度でした。

文楽の残した名言に、「器用じゃだめなんです」というのがあります。
かれは、不器用ゆえに、芸を磨き、
名人の領域に達したという自負心をもっていました。
持ちネタの多かった、8歳年下の六代目三遊亭圓生と自分を比較して、
圓生は無駄ばかり。あたしの芸はすべてが十八番です」
と語ったこともあります。

そんな圓生は、文楽の葬儀の弔辞で、
「戦前、戦後と世相が移り変わるなかで、あなたの芸は、少しも崩れなかった。悪くいえば、融通がきかない不器用な芸だといえるが、それがすばらしい名人芸となった。終始崩れることのない名人芸で、人びとに勇気を与え、こんにちの落語界に大きな貢献をされたことを深く感謝しております」と語っています。
文楽に否定的だった圓生の言葉だけに重みがあります。

文楽は生涯5回結婚していますが、実子には恵まれませんでした。
ある日、金に困った五代目古今亭志ん生が、
自分の娘を文楽に売りに来たことがあります。
「あたしゃ驚いてねえ。そりゃ孝ちゃん(志ん生)いけませんよって」。
志ん生の娘・喜美子さんの記憶によれば、
養子縁組の話があったのは、昭和5年頃、喜美子さんが5歳のときで、
志ん生から文楽に、
当時の金で、5円で引き取ってくれという話をしたのだといいます。

そのほかにも、文楽が養子を迎える話はいくつかあったようで、
候補にあがった中には、のちの立川談志がいました。
談志の師匠の小さんは文楽の弟子で、
談志は文楽の孫弟子にあたります。
もし、養子縁組が成立していたら、
談志は、九代目桂文楽になっていたかもしれません。

実は文楽には、女房のほかに愛人がいて、
文楽との間に、男の子をひとり儲けていました。
この子は大学に入ると、全学連の闘士になっていたといいます。
「あんな者が文楽の倅だと世間に知れたら、勲章を御上に返上しなければなりません」といって、文楽はおぞましげに身を震わせたといいます。

文楽は、勲章を取り上げられることを恐れたのではなく、
自分のような芸人に勲章を下された御上に、
勲章をやらないほうがよかったと、後悔させてしまうならば、
畏れ多いという思いが強くあったのだろうということです。

古今亭志ん生は骨董蒐集が趣味で、
文楽宅には、志ん生から無理やり買わされた書画骨董が、
山のようにあったそうです。
どうりで志ん生の得意噺には、「火焔太鼓」やら「猫の皿」やら「道具屋」やら、
骨董屋の噺が多いはずです。

文楽には骨董関係の噺はひとつもありませんから、
おそらく骨董趣味はなかったのでしょう。


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