さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

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千利休の首

よしをです。

豊臣秀吉千利休との関係悪化は必然でした。

ふたりの離心の原因は諸説ありますが、

結局、茶事の好みが根本的に相容れなかったのでしょう。

利休の侘茶は諸将の心をつかみましたが、

秀吉はその芸術性を理解できませんでした。

 

元来、豊臣秀吉は強烈なコンプレックスの持ち主です。

素性は知れず、多指症であり、外見も醜く教養もありません。

したがって自らの価値を高めようとして、

高貴な女を好み、きらびやかに着飾って、華美な茶器を好みました。

しかし、いくら権力を握っても得ることができない利休の教養や名声が、

秀吉のコンプレックスと嫉妬に火をつけ、

やがては利休の一挙手一投足が気に入らない状態になっていきました。

 

秀吉が小田原城を攻略した際に、

利休の愛弟子・山上宗二が、陣中で催された茶席で秀吉の怒りを買って、

鼻と耳を削がれて処刑されてしまいました。

利休のショックは大きく、

その翌年に秀吉から演出を任された茶会において、

派手好きな秀吉が嫌うことを知りながら、

平然と漆黒の茶碗に茶をたてて秀吉に供しました。

秀吉は山上宗二が殺されたことへの意趣返しだと感じたかもしれません。

 

利休が寄進して改修した大徳寺の山門には、

利休の像が置かれていましたが、

秀吉が大徳寺を訪れた際、利休像が見下ろしたとして問題になりました。

この像は、利休が設置したものではなく、

寄進に対する礼の意味で大徳寺側が置いたものでした。

しかも置かれたのは2年も前のことであり、

秀吉は大徳寺を訪問する前から、利休像のことを知っていたはずです。

この事件は、日頃から利休を疎ましく思っていた

秀吉の当てつけだったに違いありません。

 

それでも秀吉は、すぐに利休が謝罪に参上すると考えていたようです。

そして利休が頭を下げれば許すつもりだったと思います。

心配した前田利家は利休の元に使いを送り、

侘びをいれるべきであるとアドバイスしましたが、

利休はそれを無視して堺に戻ってしまったため、

ついに秀吉の怒りが爆発してしまいました。

 

利休像は大徳寺の山門から降ろされ、

堀川にかかる一条戻橋に磔にされました。

さらに秀吉は利休を京に呼び戻し、切腹を命じたのです。

秀吉からの使者を迎えると、

利休は茶室で茶をたて、その場で切腹しました。

利休の首は磔にされた利休像に踏みつけられる形で晒され、

首をみるために、民衆が列をなしたといわれています。

 

この事件にはさまざま脚色がされて伝わっていますが、

要するに絶対権力者の驕りであり、文化人に対する強烈な嫉妬です。

利休の切腹は、その後の太閤秀吉の人望を失わせるに

充分な逸話となりました。

権力者が謙虚であることは実に難しいことです。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。