さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

起業とか資格とか。趣味や思い出話など いろいろランダムに

北海道開拓の道筋

よしをです。

田沼意次といえば、賄賂政治の代名詞として悪名高い政治家です。

田沼は紀州藩足軽の家に生まれましたが、

幼い頃から利発で知られていました。

紀州藩徳川吉宗が八代将軍になると、

小姓として江戸に随行して旗本になり、メキメキ頭角を現していくのですが、

身分制度が厳しい時代で身分の低い者がのし上がっていくために、

田沼は賄賂が必要と考え、罪悪感もなかったようです。

 

田沼意次の失脚によって、ほとんどの政策が挫折しましたが、

蝦夷開拓は注目に値する事業計画でした。

蝦夷地というのは、北海道と、樺太択捉島、千島列島を指し、

大部分の地域に先住民族アイヌが住み、

北海道の西南の函館周辺など一部が、松島藩の所領でした。

松前藩は、アイヌとの交易を独占していましたが、

ロシアの貿易船が頻繁に蝦夷を訪れるようになっていて、

ひそかに、ロシアとの交易をおこなっていたようです。

 

天明3年(1783年)に、仙台藩の工藤平助が「赤蝦夷風説考」を記し、

ロシア(赤蝦夷)貿易と蝦夷地開拓を進言しました。

田沼はその主張に注目し、北海道全土と樺太に調査団を派遣しました。

天明5年には蝦夷開拓を立案し、最上徳内蝦夷に派遣しましたが、

政敵である松平定信によって失脚させられたため、

田沼の蝦夷開拓計画も、夢と消えてしまいました。

 

寛政12年(1800年)になると、あらたな蝦夷開拓の動きが生まれました。

八王子千人同心は、もともと甲州武田家の遺民で、

江戸時代になると、八王子に移り住んで、

甲州街道の警備をおこなっていた一団です。

ロシアによる外圧を問題視していた幕府の意をくんで、

同心組頭である原半左衛門が、

一旗揚げようと、同心子弟100人を連れて蝦夷地に入り、

白糠(しらぬか)と苫小牧に入植したのです。

しかし蝦夷の自然は厳しく、病で倒れる者が続発したため、

開拓団は数年で挫折してしまいました。

 

明治政府が成立すると、

ようやく、政府主導の蝦夷開拓が本格化しました。

蝦夷地は北海道と改称され、

開拓次官に就任した黒田清隆が主導して、開発計画を打ち出しました。

初期の開拓を担ったのは、明治維新で禄を失った武士たちです。

動乱期に幕府方についた、仙台藩会津藩の旧藩士などが入植し、

1873年に創設された屯田兵がそれに続きました。

 

北海道開拓は、田沼の蝦夷開拓計画が失敗したため、

50年以上遅れる結果になりました。

1875年の樺太千島交換条約で、

日本は、日露混住の地であった樺太(サハリン)を放棄し、

ウルップ島以北の千島列島をロシアから譲り受けました。

もし、田沼の蝦夷開発が採用されていれば、

日本人の樺太への入植が先行し、ロシア人の移住はなかったと考えられ、

樺太は日本固有の領土だった可能性が高いのです。

 

蝦夷地開拓にあたって、

田沼は、被差別部落の人たちを移民する計画だったといわれています。

社会的、経済的に貧窮する人たちの救済を目論んだのでしょうが、

それにより、後世に、

北海道への地域差別がおこる可能性があったことを考えると、

田沼の計画が破綻したことは、あるいは、よかったのかもしれません。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。