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2人の王様のその後

よしをです。

 

李朝末期の朝鮮は、
両班(ヤンパン)とよばれる支配者層が、権力闘争に明け暮れ、
不正や腐敗が横行したため、朝鮮全土が荒廃していました。
国家財政は破綻状態にあり、庶民の生活は苦しく、
慢性的に、農民一揆が発生していました。

同時期に、幕末を迎えていた日本でも、
尊王攘夷や開国派との勢力争いやテロリズムの横行で、
国内は、不安定な政情下にありましたが、
朝鮮との決定的な違いは、
政府の上層部から、下級の攘夷志士に至るまで、表現の差こそあれ、
外敵に対抗することの必要性を、認識していたということです。

このような国内情勢の違いが、両国のその後を大きく変えました。
朝鮮半島は、四方を強国に囲まれ、
ある派閥は、清に助けを求め、ある派閥は、ロシアに、
またある派閥は日本に、救いの手を求めました。
李朝首脳に、政府としての当事者能力がないために、
ずるずると時代の波に飲み込まれるばかりでした。

黒船来訪以来、
日本は、国境線を画定する必然性が生まれました。
領土の北は、北海道から北方領土にかけてを、
そして、南は琉球までを、日本の領土と確定し、
その後は、日清戦争では台湾を、
日露戦争では、樺太南部を日本の領土に組み入れました。

台湾統治は、さほど難しい問題はありませんでしたが、
琉球と朝鮮については、共通する課題が残っていました。
そのどちらにも、王様がいたことです。

1871年に、日本政府は、廃藩置県によって、
幕末には実質、薩摩藩の植民地であった琉球を、
鹿児島県の一部として併合し、琉球王国は消滅しました。
日本政府は、琉球を懐柔するために、
翌年には、琉球王国の支配者であった尚泰琉球藩主としますが、
納得のいかない尚泰は、清に密使を送るなどして抵抗しました。
しかし、1879年に、本土から軍隊と警察600人が送られて、
軍事的に制圧されると、琉球藩は廃止されて、
王国は完全に消滅しました(琉球処分といいます)。

1910年の日韓併合により、
500年間続いた李氏朝鮮は、27代純宗の代に滅亡しました
日韓併合は、
お人好しの日本が、良かれと思ってやったことなのですが、
後になって、日本にとっても、朝鮮にとっても、
現在まで諍いが続く、ケチのつき始めとなってしまいました。

李王朝は華族としてではなく、
皇族とならび、王族級の扱いをもって迎え入れられました。
純宗や皇太子(李銀)は、「殿下」と呼ばれました。
昭和20年4月に、純宗が死去しました。
後継ぎとして、陸軍中将になっていた李銀が残りましたが、
戦後、李銀は地位を失って、ただの在日朝鮮人になり、
1963年に、韓国に帰国したそうです。

国家の方向性を決めるためには、
刹那的、情緒的であってはならない。
他国に自国の未来を託してはならないし、
その結果を、相手のせいにしてはならならない。
小手先で相手をだますような手口を使ってはならず、
政権が交代することがあっても、
条約を覆すことがあってはならない。

数百年続いた李朝が滅んだのは、そういう理由からです。

琉球を支配した、尚泰一族は、華族として迎え入れられ、
明治政府に、東京移住を命じられました。
第二次大戦後は、ほかの華族とともに、還俗しますが、
尚氏の末裔は、現在も健在だそうです。

一方、李氏のその後については、
韓国国内には、王家の血筋をもつ2人の末裔がいるそうで、
李家当主の認定をめぐって、2つの団体が係争中だそうです。
いつまでたっても、この国の国民性は変わらないようで…。


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。