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空白の一日

よしをです。

江川卓投手は、わたしが知るなかで最高の日本人投手です。

作新学院時代は「怪物」とよばれ、

完全試合2回、ノーヒットノーラン9回を達成しました。

 

高校3年のドラフトで、阪急に1位指名されると、

入団を拒否して法政大学へ進学し、

大学4年のドラフトでは、クラウンライターに指名され、

入団を拒否して、1年間の浪人生活に入りました。

 

翌年の1978年11月22日のドラフト会議の前日に、

江川卓は巨人と契約しました。

巨人の説明によれば、ドラフト会議の前日は自由の身分であり、

ドラフト外の選手としての入団契約が可能であるというものでした。

 

そんなバカな、というところですが、トリックが隠されていました。

ドラフト会議で交渉権を得た球団が、当該選手と交渉できるのは、

翌年のドラフト会議の2日前までとされていました。

また、当時のドラフト対象選手は、

「日本の中学、高校、大学に在籍している者」、

あるいは、「社会人野球の球団に所属している者」であり、

江川投手は、どの組織にも属していなかったため、

野球協約では、「ドラフト対象外」という解釈ができたのです。

 

野球協約の盲点でした。

しかし、巨人の行為を認めてしまえば、

ドラフト会議が無実化してしまう可能性があるため、

プロ野球連盟は、江川投手との契約を無効としました。

特定の球団が、どうしても入団させたい選手がいれば、

学校や会社を辞めさせて、1年間浪人させれば、

自由に入団させることができてしまいます。

 

巨人は、連盟の裁定に猛反発し、

翌日のドラフト会議をボイコットします。

当時の巨人軍監督の長嶋茂雄は、ドラフト会議の当日、

「寝耳に水だ。どうなっているのか?」と、記者に尋ねたといいます。

球団首脳から、なにも聞かされていなかったようです。

 

ドラフト会議では、阪神が江川投手を指名します。

コミッショナーは苦慮しますが、

強権発動で、江川選手は、一旦阪神と契約し、

すぐに巨人へトレードに出すように提案しました。

阪神としても交渉が長引くことを避け、

当時の巨人のエースであった、

小林繁投手と江川投手を交換することになりました。

 

小林投手は翌年、巨人戦8勝を含む22社を挙げ、

沢村賞も受賞しました。

一方の江川投手の成績は9勝に終わっています。

 

2年目の江川投手は16勝を挙げ、

最多勝最多奪三振のタイトルを獲りますが、沢村賞を逃しました。

翌年は20勝6敗で最多勝最多奪三振最優秀防御率最多勝率、

最多完封と、投手のタイトルを総なめしますが、

沢村賞に選出されたのは、18勝12敗の西本聖投手でした。

 

これらの結果は、

沢村賞を選ぶ担当記者が、江川投手を敬遠した結果でした。

しかし、これが、

ダーティのイメージがつきまとっていた江川投手への、

同情の声に変わります。

「いくらなんでも、この結果はないんじゃないか」、と。

逆に、プロ野球ファンによる

西本投手へのいわれのないバッシングに変わったのは皮肉であり、

西本さんにとっては気の毒なことでした。

 

現在、プロ野球に入団する選手は、一定の年数を経過すれば、

フリーエージェントの資格を得ることができます。

しかし、江川投手の時代には、そのような制度はありません。

高校卒業後、阪急に入団していれば、

300勝以上の成績を得られたと思いますが、

おそらく阪急は、引退するまで、

江川投手を手放さなかったでしょう。

 

空白の一日事件は、

フリーエージェントや、MLB挑戦を可能にするなど、

その後のプロ野球の改革につながったともいえ、

その意味では、江川投手は貢献をしたといえるでしょう。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。