さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

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試験問題と一般常識

よしをです。

 

資格試験の勉強をしている中で、

先日、不思議な練習問題に行き当たりました。

 

(問題)

甲不動産を保有するAさんの知らない間に、

Bが、甲不動産を自分のものであるという登記をしたうえで、

事情を知らないCさんに売ってしまいました。

BからCさんへの不動産の移転登記も、

完了しているのですが、

Cさんが甲不動産を取得するための条件は何でしょうか。

 

(答え)

Aが、BからCへの登記移転を容認すること

 

どうにも納得できません。

Aさんは、勝手に自分の不動産を売られてしまったのに、

なぜ、Bの詐欺行為を容認しなければならないのでしょうか。

BからCさんへの、甲不動産の売買に関しては、

当然ですが、BはCさんから、代金を受け取っています。

この代金は、Bが詐取したものなのですが、

Bは、罰せられないのでしょうか。

おそらく、Aさんは、Bを提訴することになり、

不動産登記の原状復帰と、

賠償請求を訴えることになりますが、

上掲の模範解答からは、

それらの重要な事情を、うかがい知ることができません。

 

つまり、あまりにも、問いの内容が不条理なため、

わたしは、この練習問題の答えを、

導くことができなかったのです。

本来は、被害者側を助ける方法を問うべきなのに、

犯罪者側に立ってどうするんだということです。

 

つまり、この問題が、

Aさんが、甲不動産を取り戻すための方法を

問うのであれば、

問題の趣旨を、理解することができます。

この場合は、

「詐欺による登記移転について、

本人が善意無過失であれば、

登記に関係なく、甲不動産を取り戻すことができる」

が答えになるはずです。

 

前に戻って、この練習問題が奇妙なのは、

登記の移転を済ませたにも関わらず、

取得のための条件を尋ねているところです。

普通は、登記によって移転は完了するのですから、

わざわざ、そのことを強調する必要はないのです。

 

要するに、詐欺行為に関する知識を問うのであれば、

登記をしても、

不動産の権利移転は認められないということを、

問題にすべきなのです。

 

ああ、こんなことにこだわっていると、

どんどん勉強が遅れていく(汗)。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。

 

アンダーソン土器盛衰記

よしをです。

 

1914年、中華民国政府は、

地質学者のユアン・アンダーソン博士を、

スウェーデンから招請しました。

中国政府は、地下資源の発見に期待をしていましたが、

アンダーソン博士の興味は、

化石や考古学だったようです。

かれは、中国各地の地質調査をおこない、

のちに、北京原人の頭骨が出土する、

北京郊外の周口店を発見しました。

 

1921年に、アンダーソン博士は、

河南省の村で、彩文のある土器を、多数発掘しました。

いわゆる、アンダーソン土器と呼ばれるもので、

その後の発掘調査により、黄河上流の黄土地帯である、

青梅翔、甘粛省から、同様の土器が、出土しています。

 

アンダーソン土器は、

紀元前2600年~紀元前2000年に、作られたものです。

渦巻や直線などの、幾何学模様の組み合わせが、

施されているのが特徴で、

出土した土器の多くは、

50センチから1メートル弱の大きな壺です。

それは、おそらく実用的なものではなく、

高貴な人物の墳墓に、

副葬品として、埋められたものだと考えられています。

土中にあったため、時代のわりに、

コンディションのいい品が、数多く残されています。

 

アンダーソン土器というのは、

日本人の骨董商が名付けた通称で、

彩文土器というのが、正しい名称だと思います。

(ただし、通称が定着しているので、以後もアンダーソンとします)。

 

当初、アンダーソン土器は、

希少な骨董として、高価で取引されていました。

中国の骨董陶磁の常として、贋作もたくさん作られましたが、

中国の経済発展により、状況は、劇的に変化しました。

中國各地で、道路工事や建築工事がおこなわれると、

それこそ、そこら中からアンダーソン土器が掘り出されるようになり、

市民の盗掘などもあって、一気に値下がりしてしまったのです。

当初は希少性もあり、珍重されましたが、

サイズが大きいため、日本での人気も薄くなり、

日本国内では、数百万円で取引されていた大きな壺が、

2~3万円になってしまうような、極端な値下がりもみられました。

 

現在は、あらたな出土品が少なくなってきたので、

相場は、落ち着いているようです。

 

個人的には、高さ10センチ程度のものがあれば、

一点ぐらいは、手元にあってもいいかとは思いますが、

そんな都合のいい品はないようです。

こういうよこしまな欲をもっていると、贋物に騙されます。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

天才脚本家 近松門左衛門

よしをです。

 

近松門左衛門(1653~1725年)は、

上方で活躍した人で、今でいうところの脚本家です。

 

歌舞伎の脚本もありますが、

ほとんどは、文楽(人間浄瑠璃)のために書かれたもので、

歴史ものを得意にしていましたが、

実際におこった事件を題材とした、

世話物という分野を確立したことで有名です。

元禄16年(1703年)、近松が51歳のとき、

最初に手掛けた世話物が、「曽根崎心中」で、

日本の演劇界に、リアリズムを持ち込んだ、

画期的な作品だといわれています。

 

大阪堂島新地天満屋の女郎はつと、

内本町醤油商平野屋の手代徳兵衛は、

恋仲でしたが、徳兵衛が、平野屋の娘と縁組して、

平野屋の江戸の店に転勤させられることになり、

一方の「はつ」は、客から身請けされることになって、

前途を悲観した2人が、

梅雨天神の森で、心中を遂げました。

 

曽根崎心中は、

この実際の情死事件をモチーフにしています。

元禄から享保にかけての、

閉塞感のただよう時代にあって、

ごく普通の市井で暮らすまじめな青年と、一途な遊女が、

世間から追い詰められて、

心中におよぶというストーリーは、

庶民のシンパシーに響いたことでしょう。

 

曽根崎心中は、7か月連続で公演される大ヒットとなり、

近松は、この最初の世話物の発表で、

浄瑠璃作家としての地位を、不動のものにしました。

 

曽根崎心中の最終段にある、

「未来成仏疑ひなき 恋の手本となりにけり」というセリフが、

市中の若者のあいだで話題になるなど、

曽根崎心中の人気は、やがて社会問題化していきました。

各地で、次々と、物語の後追い心中が発生したのです。

 

問題を重く受け止めた幕府は、

心中を厳禁し、取り締まりを強化しました。

心中した場合、死体は裸にして、

野犬が食い荒らすがままに放置し、

心中が未遂に終わった場合は、

片方が生き残れば打ち首に、

双方が生き残った場合は、町中でさらし者にしたのち、

身分を剥奪して、非人に引き渡されたといいます。

 

しかし、このような厳しい処罰は、

表沙汰になった場合のことで、

内々で処分された例が、「藤岡屋日記」に残っています。

板橋宿の遊女お亀が、

浦和の農民藤吉と短刀で心中を図ったが、

失敗して、2人とも苦しんでいるところを発見されました。

ちょうど、板橋宿では祭りの準備中で、

できればトラブルは起こしたくないと考えた、

板橋宿の有力者が協議し、

事件を代官所に届けず、内々で処理することになりました。

藤吉は喉を突いて、重体でしたが、

親元に人を走らせて、10両を渡して、身柄を引き取らせました。

お亀は療養させていましたが、

喉を突いた傷がもとで、しばらくして亡くなり、

病死として処理されました。

板橋宿では、祭りも無事おこなわれたということです。

 

その後、近松は、天保9年(1724年)の正月に上演した、

関八州繁馬」で、火を使った仕掛けが人気を呼びますが、

この興業の成功は、

大阪に大火事が発生する予兆であるという噂が飛び交い、

実際に、その年の3月に、

大阪の町の3分の2を焼く大火が起きました。

このことにショックを受けたかどうか、

近松はその年の11月に、72歳で亡くなったそうです。

 

関八州」は、平将門の乱の後日談を題材にした歴史もので、

わたしは、大火は、将門の怨霊が仇をなしたのだと思います。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

犬神家の一族と遺産相続

よしをです。

 

昭和22年に日本国憲法が施行され、

憲法のもとで、民法も改正されました。

横溝正史の「犬神家の一族」は、

小説では、事件の舞台を昭和2X年としていますが、

1976年に制作された映画版では、

冒頭に昭和22年(1947年)のテロップが入りますから、

改正民法が適用された時期の事件であると考えます。

 

犬神家という大富豪の創始者・犬神佐兵衛が亡くなりました。

佐兵衛は正妻を娶らず、

それぞれ別の女に産ませた3人の娘がいて、

3人の娘には、それぞれ息子が1人(A、B、C)います。

また、佐兵衛には、3人の娘のほかに愛人がおり、

男子(D)を1人産んでいます。

佐兵衛は、A~Cを認知しているが、Dは認知せず、

そのほか、佐兵衛の終世の恩人の孫娘(E)が、

重要な役割をもって登場します。

 

佐兵衛は遺言を残していました。

 

①Eが(A~D)のひとりと結婚した場合、財産を全て相続する。

②Eは①の条件に従わない場合、相続権を失う。

 この場合、(A、B、C)は各1/5を相続し、

 Dが2/5を相続する。

 

この遺言書が、どういう意味をもつか、検証してみます。

まず、Eについては、「相続」と表現していますが、

実際には「贈与」です。

 

早速、①の場合を検証してみましょう。

かりに、佐兵衛の財産の総額を10億円とします。

本来、相続の権利をもつのは、A~Cと、かれらの母親です。

たとえば、EがAと結婚した場合、B、Cと、その母親には、

本来もらえるはずの遺産の1/2にあたる遺留分が発生します。

また、Aにも遺留分が発生します。

Dは非認知ですから、遺留分は発生しませんが、

そもそも、Dは、すでに死亡したことになっていますから、

被相続人から除外します。

かりに、EがAと結婚する場合、

被相続人には、遺留分が発生するので、

各人の取り分は、以下のようになります。

 

Aと母親⇒10億円×1/3×1/2=1億6667万円

Bと母親⇒10億円×1/3×1/2=1億6667万円

Cと母親⇒10億円×1/3×1/2=1億6667万円

D(死亡)⇒0円

E⇒4億4444万円

Aと母親とEの合計⇒6億1111万円

 

②の場合は、

Dが死亡しているため、本来の相続ということになります。

Aと母親の合計⇒10億円×1/3=3億3333万円

Bと母親の合計⇒10億円×1/3=3億3333万円

Cと母親の合計⇒10億円×1/3=3億3333万円

D(死亡)⇒0円

E⇒0円

になります。

 

ネタバレで申し訳ないのですが、

実はDは生きていて、のちに殺されるという設定です。

 

犬神家の事件を防ぐことは、おそらく可能でした。

この事件は、DのA~Cの母親に対する恨みから発生しています。

佐兵衛が、どうしても、Dに遺産相続させてあげたいのであれば、

Dを認知すればよかったのです。

Dが、遺産分与の段階まで生きていれば、

 

①の場合は、10億円×1/7×1/2=7143万円(※)を、

②の場合は、10億円×2/5=4億円を、

もらえたことになります。

※①は遺留分で、当時の民法では非嫡相続分は嫡出子の1/2です。

 

Dには、最低でも、遺留分が発生しますから、

①の遺留分に納得して、溜飲をさげることができたかもしれません。

この凄惨な殺人事件は、

佐兵衛が、無知がゆえに、招いた事件だったといえるでしょう。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。

 

岩佐又兵衛と松平忠直の狂気と芸術

よしをです。

 

浮世絵の祖ともいわれる岩佐又兵衛は、

洛中洛外図屏風風舟木本」など、

数多くの傑作を世に残しています。

 

又兵衛は、戦国武将、荒木村重の子どもです。

村重は織田信長に仕えましたが、

反旗を翻したのちに敗れ、

居城の有岡城から逃亡しました。

怒り狂った信長は、城に残る家臣や女房衆は皆殺しにし、

村重の妻子は、六条河原で首をはねられました。

しかし、当時2歳の又兵衛だけは、

乳母の機転に救われ、難を逃れました。

 

一方、逃亡した荒木村重は、

信長が本能寺で斃れると、堺に現れ、

千利休に弟子入りすると、

堂々と茶会などにも出席していたそうです。

その後は、市井の庶民として、一生を終えます。

 

又兵衛は、長じると、京都で絵師として活躍しました。

洛中洛外図屏風風舟木本(国宝)」を制作すると、

大坂夏の陣ののち、越前へ移住しました。

 

又兵衛を呼び寄せたのは、松平忠直です。

忠直は、大坂の陣で,

真田幸村を討ち取った武功があるものの、

家康に冷遇され、鬱々とした日々をおくっていました。

忠直は、悪君としての評判があり、

「笑わぬ愛妾を喜ばせるために、妊婦の腹を裂いた」、

「領民を理由なく惨殺した」などの、悪行が報告されています。

菊池寛の「忠直卿行状記」でも、

忠直の異常行動が、エスカレートする様が描かれていますが、

実際に、どこまで本当のことだったかは不明です。

のちに、忠直が幕府によって追放されたことは事実なので、

なにがしかの問題はあったのでしょう。

この忠直との出会いが、

又兵衛が、狂気じみた絵巻物を作成するきっかけになりました。

 

又兵衛は、全12巻から成る、

山中常盤物語絵巻重要文化財)」を製作します。

この絵巻は、源義経の母、常盤御前をモチーフにして、

常盤御前が盗賊に殺され、

牛若丸が、仇討をする復讐劇が描かれています。

 

絵巻には、まず、

常盤が襲撃される部分が描かれています。

何人もの半裸の女衆に、複数の盗賊が襲い掛かり、

刀を突きたてている、凄惨な殺害現場です。

なかには笑みをうかべながら、

刀で胸を突いている盗賊もいます。

 

後半は、牛若丸の仇討の場面です。

牛若が、顔に奇妙な嗤いを浮かべながら、

盗賊を切り裂いている様子が描かれています。

頭から半身を真っ二つにされた,

盗賊の姿もみることができます。

 

この絵巻は、悲惨な幼少時代をすごした又兵衛と、

不遇をかこっていた忠直の、

マイナスのエネルギーのぶつかり合いを表現しているようで、

芸術のもつ狂気を、感じ取ることができます。

 

絵巻物が描かれた後、松平忠直は豊後へ配流され、

逃亡を防ぐため、監視状態におかれたまま、

56歳で亡くなりました。

一方、岩佐又兵衛は江戸に移り住み、

作画活動を続け、73歳で生涯を終えます。

又兵衛は、少なくとも1人、

子をなした(岩佐勝重)ことが知られています。

家族に縁の薄かった又兵衛にとって、

救いとなったことでしょう。

 

山中常盤物語絵巻は、

忠直の息子・光吉が転封した、

津山藩松平家で保管されていましたが、

大正時代になって売りに出され、

現在は、MOA美術館に所蔵されています。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

パク・クネ弾劾裁判をおさらいしてみる

よしをです。

 

いろんな不愉快な話題が、

押しては引く波のように沸き出てくる、日韓関係ですが、

今回は、韓国の法曹界の無法ぶりについて、検証してみます。

 

8月29日に、パク・クネ前大統領らの最高裁判決があり、

パク・クネ前大統領、大統領の友人であるチェ・スンシル、

サムスン電子副会長のイ・ジェオンの3人の被告に対して、

いずれも、高裁に再戻しになったというニュースが入ってきました。

 

そもそも、3人が、なぜ裁判にかけられているのかすら、

すっかり忘れていましたが(汗)、

法律とビジネスの勉強をしている身としても、

この裁判の振り返りは、

多少は、勉強になるのかな、と思っています。

 

わたしが注目しているのは、イ・ジェオン副会長の判決です。

イ・ジェオン氏は、2017年2月に逮捕されました。

2017年8月、一審で懲役5年の有罪判決によって、即日拘束され、

翌年2月、二審で懲役2年6か月、執行猶予4年となって、釈放され、

今回の、最高裁の判決を迎えました。

 

イ・ジェオン氏が、

一審で実刑判決を受け、二審で執行猶予になった理由は、

韓国の刑法では、50億ウォン以上の贈賄については、

5年以上の実刑が定められているからで、

一審では70億円、二審では20億円の贈賄が認定されています。

 

二審判決で、贈賄金額が減額された理由は、

スポーツ関連の寄付行為である、

馬3頭の寄付と、スポーツセンターへの支援金の、

合計50億ウォンが、贈賄ではないと認定されたからです。

一方の、パククネ側の収賄金額は、

一審でも二審でも、70億ウォンで、変わりませんでした。

 

つまり、二審では、

贈賄側のイ・ジェオン氏では、不正認定されなかった、

スポーツ関連への50億円の寄付行為が、

収賄側のパク・クネ氏に対してのみ、不正認定されるという、

ちょっと変な話になっていたのです。

 

最高裁での差し戻しの意味は、

「二審の贈収賄の金額が合わないのは、おかしいから、やっぱり、贈賄側の50億円分もカウントしておこう」、という話になったのでしょう。

日本のマスコミからは、

文政権による、恣意的な判決の引き延ばしという解説も出ていますが、

わたしにしてみれば、一体どこを見ているのかという話です。

 

こんないいかげんな裁判は、

少なくとも、日本では聞いたことがありません。

すでに、二審の判決の段階で、スキャンダルになりそうなものですが、

それも、スルーされてきたのでしょう。

韓国の新聞各紙でも、

収賄の金額の不一致に注目した記事は、見つかりませんでした。

マスコミがこんな状態ですから、

韓国の裁判は、やりたい放題なのでしょう。

呆れて物も言えません。

 

イ・ジェオン氏や、サムスン電子は、スポーツ振興のためにと、

政府から頼まれて、寄付をおこなっただけのことで、

おそらく、これ以前にも、寄付は、普通におこなわれてきたはずです。

また、サムスンに限らず、ほかの財閥でも同じように、

歴代政府から、スポーツや文化振興に寄付を要請され、

実際におこなってきたでしょう。

これが、贈賄にあたるというのでは、たまったものではありません。

 

イ・ジェオン氏の弁護士も、

「なぜ、サムスンの寄付だけが、贈賄なのか」と、不満の声をあげていますが、

国策裁判の前では、その訴えも無力です。

まさに、ムンジェインによる、

前政権と財閥に対する、魔女裁判であることがわかります。

本当に、こんな国に生まれなくてよかった。

 

 

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オオカミ信仰

よしをです。

 

真神(まかみ)とは、

ニホンオオカミが神格化したもので、大口真神とも呼ばれます。

オオカミは口が大きいので、「大口」なのでしょう。

作物を荒らすウサギやイノシシを退治するオオカミは聖獣であり、

信仰の対象でした。

大口真神信仰は、おもに関東を中心とした東日本に広がっています。

 

埼玉県秩父市にある、三峰神社の歴史は古く、

雲取山白岩山、妙法嶽の3つの峰が美しく連なることから、

その名で呼ばれています。

景行天皇が日本 武尊を東国に遣わした折、

上野国(群馬)から碓氷峠に向かう途中に、

邪神が大鹿の姿であらわれたところを、武尊が野蒜で追い払うと、

大山鳴動して霧が発生し、道に迷ってしまいました。

そこに忽然と、白いオオカミが現れて、道案内をしてくれたので、

武尊は、難を逃れたという伝説があります。

道案内の先の地において、その山河の美しさに感銘した武尊が、

国の安泰を祈念して社を造営したことを、

この神社の始まりとしています。

 

神話の時代が過ぎ、

その後は、修験道が伝えられるなどで栄え、

神仏合体によって仏教色が強まります。

室町時代に、一度は廃絶しますが、

時代は下って、江戸時代になり、

1720年に日光法印によって神社が再興され、

三峰大権現と称します。

この頃に、秩父の山中に生息するオオカミを、

害獣から守る眷属とし、「お犬様」として崇めるようになり、

盗賊や災難から守ってくれるとして、

オオカミの護符を受ける、御眷属信仰が流行しました。

 

明治維新まで、神仏習合の社であり、

神前奉仕も僧侶がおこなっていましたが、

神仏分離政策により、寺院を廃して、現在に至るということです。

 

秩父の山には、三峰神社のほかにも、

オオカミを祀る神社が21社もあり、

それぞれが、独特な様式で、真神を祀っています。

西日本には真神信仰はなく、

オオカミは、むしろ害獣扱いなのですが、

秩父を中心に、真神信仰が発展したのは、

修験道と、オオカミとの間に、

親和性があることが理由かもしれません。

 

昔、オオカミは、日本武尊にそうしたように、

山を歩く猟師や修験者に、道案内をしていたのだと思います。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。