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シルクロードと一帯一路の決定的な違い

よしをです。 

 

唐辛子とか、唐草模様、唐獅子など、「唐」の字を当てる文物は、

外国から伝来したことを表しています。

 

唐の都・長安は、当時、世界最大の国際都市でした。

長安は、周囲を城壁に囲まれた城壁都市で、壁の周囲は37キロもあり、

城壁の内部には、南北8651メートル、東西9721メートルの、

碁盤の目状の街区を形成していました。

城の中心には、幅150メートルのメインストリートが南北を貫き、

中東やインド、中央アジアなど、世界中から商人が集まりました。

 

長安の最盛時の人口は、100万人を超えており、

ユーラシア大陸を横断するシルクロードの、大動脈の要害であり、

唐帝国の威厳を誇示するに余りある大都市でした。

 

長安は、経済の中心として機能しただけではなく、

国際都市にふさわしく、文化交流がおこなわれました。

なかでも特徴的だったのは、多くの宗教施設が建てられたことです。

長安には、仏教の各宗派の寺院をはじめ、道教の寺院のほかに、

ネストリウス派キリスト教の教会や、ゾロアスター教マニ教といった、

当時、邪教といわれるようなものまで、さまざまな宗教施設が集結しました。

これらの多彩な宗教の自由を認めることで、

長安は、あらゆる国の人びとを、自由に往来させていたのです。

 

日本からは遣唐使が渡来して、さまざまな最新技術を、大陸から導入しました。

正倉院には、楽器や鏡、香木やガラス器、螺鈿の箱や金属製の装飾品など、

この頃にもたらされた宝物が、いまでも大切に保存されています。

 

日本には、唐から、都市建築のノウハウも伝来し、

長安を模して、平城京平安京がつくられました。

また、大陸に派遣された遣唐使は、

唐だけでなく、渤海朝鮮半島新羅とも、盛んに交流しました。

当時の日本は、仏教が盛んな時代であり、

平城京には、中国や、インド、中央アジアの国々出身の僧侶が訪れるなど、

国際都市として活況を呈しました。

 

現代のシルクロード、一帯一路構想には、

ふたたび大帝国の威信を示そうという、中国政府の野望が、

実現するかどうかに、注目が集まっています。

 

無計画な膨張政策に限界が訪れ、今や生産過剰に苦しむ中国は、

一帯一路の推進によって、外国からのインフラ受注をゴリ押しし、

国内の経済問題を、一気に解決したいと考えています。

さらには、シルクロード基金や、アジアインフラ投資銀行による貸付により、

経済的に脆弱な相手国を縛りつけ、

やがては、経済的に植民地化するという、

前近代的な、帝国主義思想が、見え隠れします。

それは、あたかも、阿片戦争以来、西欧諸国や日本に蹂躙された怨念を、

意趣返しするような意図とも、感じとれるのです。

 

唐の時代の中国は、外国や異質なものに対して、おおらかでした。

宗教や人種の壁を取り払って、すべてを受け入れる姿勢があったがゆえに、

長安は、経済や文化の中心になったのです。

しかし、現代の中国は違います。

中国政府が、国内の少数民族への弾圧や民衆への思想統制をやめない限り、

この国に自由な魅力を感じて、多くの人や資金が集まることはありません。

 

今後、北京や上海は、ますます人口が膨らみ、高層ビルが立ち並ぶでしょう。

しかし、いくら、表面上きらびやかに飾り立てたとしても、

中国政府が、多様性へのおおらかさを認めない限り、

都市としての価値や魅力が、上がることはありません。

悪意を抱くものには、信頼は集まらないのです。

 

今、大阪に世界中の為政者が集合しています。

ふと、そんなことを考えました。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。