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美空ひばり没後30年

よしをです。

 

今年は、美空ひばり没後30年になるそうです。

空美波里は昭和12年(1937年)横浜市生まれ、本名は加藤和枝。

平成元年(1989年)に、52歳の若さで亡くなりました。

 

12歳でデビューして、天才少女歌手と呼ばれ、

以後、40年間にわたって、歌謡界の第一線で活躍し、

女性として初の国民栄誉賞を受賞しました。

 

太平洋戦争の折、1943年に父親が出征することになり、

壮行会で、当時6歳のひばりが、歌を歌いました。

参加者が感銘し、涙する姿を目の当たりにして、母親が才能を見いだし、

その後、母子で、ひばりの歌による慰問活動を各地でおこなったのが、

歌手活動の原点だそうです。

 

1946年(昭和21年)になり、

9歳になったひばりは、NHKの「素人のど自慢」に出場しました。

ところが、審査員から、

「歌は上手いが、子どもらしくない」という酷評を受けてしまいます。

母子は、クレームをいうつもりで、審査員の古賀政男を訪ねますが、

逆に、歌手デビューを勧められることになりました。

 

しばらく、地方巡業に同行するなどの活動をしていましたが、

神戸の舞台出演した際、山口組三代目田岡一雄の目に留まりました。

1958年に、田岡氏が代表となった、神戸芸能社の専属となり、

以後、終生、田岡三代目との交流は続きました。

ひばりはのちに、「お嬢」と呼ばれるようになります。

わたしは、田岡氏が、そう呼んだのだと思っていましたが、そうではなく、

「お嬢さん社長」という映画への出演がきっかけだったそうです。

 

ひばりは、1962年に、小林旭と結婚しますが、2年で離婚しました。

しかし、実際には入籍しておらず、ひばりは戸籍上、生涯独身でした。

 

美空ひばりは、数々の名曲を残しています。

その楽曲には、いくつかのカテゴリーがありますが、

特徴的なのは、ほとんどラブソングがないということです。

 

「東京キッド」、「東京ブギウギ」、「お祭りマンボ」、「港町十三番地」、

車屋さん」、「真っ赤な太陽」などの、威勢のいい曲、

「リンゴ追分」、「悲しき口笛」、「悲しい酒」、「裏町酒場」など、哀愁ただよう曲、

「柔」、「人生一路」、「王将」のように、男の世界を歌った曲などがあります。

 

数あるひばりの楽曲のなかでも、

わたしは、最晩年の「愛燦燦」や「川の流れのように」の2曲には、

人生を悟った、彼女の心情が現れていると思います。

 

1988年4月、東京ドームの、こけら落とし興行として、

美空ひばりのコンサートツアー「不死鳥コンサート」がはじまりました。

このとき、ひばりは、すでに重度の肝硬変を患っていて、

大腿骨骨頭壊死で、歩けなくなるなど、再起不能だといわれていましたが、

復帰コンサートでは、見事に39曲を歌い上げました。

 

最期のシングル「川の流れのように」は、秋元康が作詞しました。

 

「でこぼこ道や 曲がりくねった道 地図さえない それもまた人生」

 

このフレーズを聞くと、涙がこぼれそうになります。

亡くなったわたしの母は、美空ひばりと同じ、昭和12年生まれでした。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。