さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

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ジェンダーの時代

よしをです。

 

平安時代は、宮廷文化が花を開きましたが、

とくに、女性の活躍の場が広がったことについては、

日本史のなかでも、異彩を放った時代であると思います。

 

女性の地位が高くなった理由は、

文学や芸術の分野が発展したことにあります。

かな文字の発明により、

教養が、女性の魅力として評価されるようになったことで、

平安貴族の女性は、

見た目だけでなく、競って、教養を磨きました。

 

紫式部清少納言を代表に、

多くの女性文学が、現代に残されています。

和泉式部日記」も、

この時代の女性文学を代表する作品のひとつです。

この作品は、和泉式部が、主人公を「女」という三人称を使って、

自分自身の恋愛を、日記の形式で綴った作品です。

現代でいうところの、

不倫を題材にした、恋愛ノベルといったところでしょう。

 

平安時代は、性に対してオープンな時代でしたが、

なかでも、和泉式部は奔放だったことで知られています。

和泉式部は、橘道貞という夫がいながら、

冷泉天皇の皇子である為尊親王と恋仲だったのですが、

為尊親王が病気で亡くなってしまうと、

すぐに弟の敦道親王に口説かれます。

和泉は、よほど魅力的な女性だったのでしょう。

和泉式部日記」は、亡くなった恋人の弟と関係をもってしまった、

女性の複雑な心境を描写しています。

こういうものを高校生の国語のテストに出題するのは、

どうかとも思いますが(汗)。

 

和泉式部は。このほかにも、いろんな貴族と関係をもち、

娘が生まれたときにも、父親が誰かわからない、

という和歌を詠む始末です。

貴族社会でも、和泉式部の行動は、さすがに問題視され、

時の権力者の藤原道長から、諫められたといいます。

 

紫式部は、自ら女性が好きだとカミングアウトしています。

10代で結婚するのが普通だった時代に、

彼女の結婚は、20代後半でした。

ある特定の女性と付き合っていることを心配した、式部の父親が、

その女性と別れさせるために、無

理やり縁談をまとめたといわれています。

数年後に夫と死別した紫式部は、

その後は生涯、独身を貫きました。

紫式部日記」には、女官たちとの戯れや、

小少将の君という女性と、愛を交わすような、

美しい和歌のやりとりが残されています。

 

現代いわれている、ジェンダーだの、ジェンダーフリーなど、

和泉式部紫式部は、「をこがまし」と、笑い飛ばすでしょう。

もっと、女を磨け、とでもいうかもしれません。

 

平安時代の美人といえば、源氏物語絵巻に描かれたような、

いわゆるのっぺりとした下膨れの顔と,

ふくよかな体型が思い浮かびますが、

最近の説では、ほとんど現代とかわらない、

目鼻立ちのはっきりした顔が好まれたといわれています。

 

紫式部は、源氏物語のなかで、空蝉の容貌について、

「目は少し腫れたような感じで、

鼻が低く、鮮やかと思える部分がない」、と酷評しています。

 

 

なぜ、平安美人への誤解が生まれたのかといえば、

その原因は、絵画です。

中国の唐の時代に、ふくよかな女性が好まれた時期があり、

そのような美人の描かれ方が定着しました。

絶世の美人とされた、楊貴妃の影響もあったのかもしれません。

その絵画技法が、日本に渡り、「美人画は、こう書くべき」ということで、

ふくよかな女性が絵巻物に描かれ、

のちに、平安美人として定着したということなのです。

 

 

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