さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

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圓生と彦六

よしをです。

 

六代目三遊亭圓生と八代目林家正蔵(のちの林家彦六)は、

いわゆる犬猿の仲で、最後までそりが合いませんでした。

彦六は、圓生が六代目を襲名した当時、

「あの人に、圓生が務まるわけがない」と、

酷評したほどでした。

 

圓生は、彦六の弟弟子である、四代目鈴々舎馬風を、

「あの人のは落語ではない」と、徹底的に否定していて、

後輩思い彦六は、心を痛めていたようです。

馬風が逝去したあと、

しばらくして、圓生落語協会会長に就任したため、

馬風はいい時に死んだ」、といわれていました。

 

二人の仲が、決定的に悪くなったのは、

圓生が、落語協会会長を引退することになったときです。

会長職は、文楽志ん生圓生と続き、

彦六は、順番からすれば、

次は当然、自分の番だと思っていました。

圓生は、彦六に会長就任を要請しましたが、

形式通りに、彦六は一度断り、

もう一度頼まれれば、会長を引き受けるつもりでした。

ところが、圓生が二度目の要請をせずに、

そのまま引き下がってしまったため、

彦六は会長の座を逃した、という逸話があります。

要するに、圓生は、最初から、彦六を推すつもりはなく、

会長の圓生を中心に、

次は五代目小さんと、内々に決められていたのです。

 

圓生は、弟子とも確執がありました。

三遊亭好生は、圓生を敬愛するあまり、

芸風から所作まで、圓生をコピーしており、

圓生は、そのことに、嫌悪感を抱いていたといわれています。

圓生は、ほかの門下からの移籍組を、

先に真打に昇進させました。

三遊派では、真打になると、

改名させて、「圓」の文字を与えるのですが、

好生を真打にした際には、

改名を認めないなど、徹底的に冷遇しました。

それらのことで、好生は、圓生を敵視するほど、関係が悪化し、

落語協会分裂の際には、圓生に従わずに破門されました。

好生は、彦六に拾ってもらい、春風亭 一柳と改名しましたが、

一柳は、圓生の死後、

精神に異常をきたし、自殺してしまいました。

 

三遊亭さん生も、圓生に冷遇されたひとりです。

新作や漫談を得意とし、客ウケもよく、

周囲から、真打昇進の打診もありましたが、

素行が悪かったため、圓生は、昇進を認めませんでした。

 

彦六は、圓生の寄席の高座を、

しばしば、ステテコ姿のまま、「そで」で、

聴き入っていたといいます。

実は、圓生の芸を認めていたようなのです。

圓生の葬儀では、

「これほどの名人はもう出ない」、とも語っています。

 

残念ながら、圓生の彦六評は伝わっていません。

幇間のように、人を褒めることが上手な、

八代目文楽とは異なり、

圓生は、人を褒めることが下手でした。

 

もし、圓生に、彦六の芸を、正当に評価する度量があれば、

ふたりの関係は、違うものになっていたでしょう。

名人圓生に褒められれば、誰でもうれしいのですから。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。