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つげ義春の思い出

よしをです。

 

つげ義春は、わたしの好きな漫画家で、

最初に読んだのが、「ねじ式」でした。

 

ねじ式」は、1968年に「ガロ」に掲載されましたが、

その後は、漫画単行本の出版ブームがあって、

単行本化されました。

わたしが「ねじ式」を読んだのも、

たしか床屋の単行本でしたが、

絵のグロテスクさや、ストーリーの難解さもあって、

作者は一体どんな人物だろうと、

不思議に思ったものです。

 

つげの存在は、それ以降しばらくして、

世間の記憶から、消えてしまいましたが、

ふたたび脚光を浴びたのが、

1991年に封切になった、

竹中直人監督の映画「無能の人」です。

この作品は、つげの原作を忠実に描いたとして、

多くの映画賞を受賞しています。

 

同年に、つげは、長年の沈黙を破って、

「貧困旅行記」を出版しました。

この作品は、つげが30歳の頃の、

九州への蒸発行を皮切りに、

一般の旅人が見落とすような宿場や寒村などに、

ふらりと訪れた様子を納めた、紀行文集です。

「貧困旅行記」の発表で、

つげは三たび、脚光を浴びることになりました。

 

つげ義春は、1937年(昭和12年)に、

東京都葛飾区に生まれました。

本名は、「柘植義春」です。

つげが5歳のとき、父親を亡くしますが、

つげは、当時の光景を、

恐怖をもって思い出すことがあるといいます。

 

死の直前、錯乱状態になった父は、

布団部屋に隔離され、

爪で中空をかきむしるような仕草をし、

布団の間で、しゃがみ込む姿勢で息を引き取りました。

母は、「これが父ちゃんだよ。よく見ておくんだよ」と、

絶叫しながら、

末期の父の前に、

つげを、引きずるようにして立たせたといいます。

「人間が一番怖い」という、つげの恐怖の原点は、

この幼少期の異常な経験からきているのでしょう。

 

母は再婚するのですが、養父との折り合いが悪く、

小学校6年生の運動会の直前には、

皆の前で走ることが恐ろしくなり、

剃刀で足の裏を切ったこともあったそうです。

 

つげの慰めとなったのは、

人と会わずにすむ、漫画の模写でした。

小学校卒業と同時に、メッキ工場に勤めますが、

転職を繰り返し、

17歳で漫画家を志して、18歳でデビューします。

漫画雑誌「ガロ」を中心に活動しますが、生活は苦しく、

生活費を得るために、血液銀行売血もしていました。

結婚、離婚を経て、

睡眠薬の大量摂取による自殺未遂を起こしています。

 

白土三平など、漫画家仲間の支援をうけて、

1965年に「ガロ」に復帰しますが、

この間、約2年間の執筆が、

つげ義春の評価を決定づけました。

 

この頃に描かれた作品が、

「紅い花」、「ねじ式」などの代表作です。

しかし、活動は長続きしませんでした。

精神的に不安定な時期が続き、

九州に蒸発したこともあります。

そして、1987年に短編作品を発表してから、

休筆状態になりました。

 

つげの作品の、「紅い花」や「山椒魚」には、

水に対する畏敬と恐怖が、描かれています。

その後の作品である、「無能の人」にもつながりますが、

自身が生まれた多摩川の光景を投射したものでしょう。

かれの作品には、幼児体験が色濃く表現されています。

 

つげ義春の世界観を、

シュールレアリズムに投影して論じる評論家も多いですが、

わたしは、かれが作品を通して訴えようとしているのは、

人間に恐怖を覚えることの原点である、

かれの幼児体験の思い出だと考えています。

 

「貧困旅行記」に注目したのは、

全共闘世代だけではなく、10~20代の若者でした。

かれらは、つげの過去作品にも注目し、

多摩川の河原で石を拾ってきて売る男の話や、

ひなびた宿を探して旅をする男の話に、

若者が共感しました。

 

共感の理由は、若い世代が、

高度成長期が主張する、物質文明の価値観に、

汚染されていない証拠なのかもしれません。

わたし自身も、

全共闘世代とは異なる接し方をしていますが、

さらに、若い世代が、わたしと異なった価値観で、

つげ作品を楽しんでいることについて、

大変新鮮に感じます。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。