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太陰暦と太陽暦

よしをです。

 

暦(こよみ)には、太陰暦太陽暦があります。

太陰暦の歴史は古く、古代バビロニアで生まれました。

バビロニアでは、

占星術師が毎晩、楼閣にのぼって、月を観察し、

かれらは、月の満ち欠けには、

一定の周期があることを発見しました。

この周期を元に、

新月から新月までを1ヶ月とするルールを定めたのが、

太陰暦のはじまりです。

太陰暦は、画期的な発明でしたが、弱点がありました。

新月から次の新月までは、

およそ29.5日であるということです。

太陰暦を元に生活していると、

1年で11日ほど、10年では半年近くも、

太陽の進行から遅れることになります。

そこで、3年に1回、1年を13か月(閏月)にし、

調整することにしました。

太陰暦に閏月を加えたものを、太陰太陽暦といい、

6世紀に中国から日本に伝わり、

明治初期まで、国暦とされました。

 

太陽暦を発明したのは、

紀元前5000年の古代エジプトです。

ナイル川は毎年、

雨期のシーズンに、洪水を起こしていました。

エジプトの占い師たちは、ナイル川が溢れるころには、

太陽が昇る直前、東の空に、

シリウスが輝くことに気が付きました。

夜空を観察するうちに、

星の見え方が、365日で、ぐるりと一周することを発見し、

かれらは、365日のカレンダーをつくり、

30日の月を12か月として、

残りの5日を神の祝日と定めました。

これが、太陽暦のはじまりです。

ところが、365日の暦も、

年月がたつうち、ずれが生じてきました。

地球の公転は、正確には、365.2422日なのです。

この問題を解決するために、

4年に一度、1年を366日にする閏年を設定しました。

 

カエサルが、エジプトから太陽暦ユリウス暦)を持ち帰り、

ローマからヨーロッパ全土に、太陽暦は普及しました。

16世紀には、暦と地球の公転との差が11日も生じたために、

やはり、修正をおこない、

当時のローマ法王 グレゴリウス13世は、

4年に1回ではなく、400年に97回の閏年を設定した、

グレゴリウス暦を発表しました。

現在、世界で使われている暦は、このグレゴリウス暦です。

 

日本政府は、明治5年まで、

日本で使われていた太陰太陽暦を、

グレゴリウス暦に代えることになりました。

改暦にあたって、政府はほとんど広報活動をしていませんでした。

布告から施行(旧暦12月2日)まで、23日というスピード実施で、

12月はわずかに、

2日(旧暦12月1日~2日)で終わってしまったのです。

 

翌年の明治6年は、旧暦で閏月があり、1年が13か月ありました。

財政の厳しかった明治政府では、

翌年は、何かと費用がかさむことが予想されていたのです。

たとえば、旧暦のままならば、

1年間に、官吏の給料を13回支払わなければなりません。

しかも、このタイミングで改暦すれば、

明治5年の12月も2日しかないので、

12月の諸経費も、まるまる節約できると考えたのです。

 

現代であれば、こんな大胆な制度改革は難しいと思います。

国会でも議論百出で、法案はなかなか決まらず、

時間ばかり経過して、

当たり前のように、越年してしまうことでしょう。

明治の改暦は、現代人の感覚からすれば、大変乱暴な話ですが、

大きな改革というのは、

一気呵成におこなうことが重要だと思い知らされます。

 

明治5年以前の日本の歴史年表は、

すべて旧暦で記録されています。

赤穂浪士が吉良邸に討ち入りしたのは、

元禄15年12月15日の未明、上寅の刻のことです。

前夜から降り積もった雪の中を、

吉良邸へ向かうわけですが、

これをグレゴリウス暦になおすと、

1703年1月31日になります。

年末になると、

毎年、赤穂浪士の歴史ドラマが放映されますが、

本当は、1月末の話だったとは。

テレビ東京にクレームを入れるべきでしょう(笑)。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。