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君死にたまふことなかれ

よしをです。

 

日露戦争では、東郷平八郎率いる連合艦隊による、

日本海海戦の華々しい勝利が喧伝されることが多いのですが、

陸上戦では、凄惨な闘いを繰り広げました。

 

乃木希典は、若くして西南戦争に従事し、ドイツへも軍学留学し、

日清戦争に従軍しました。

その後、台湾総督に任じられ、退いたのち、

第11師団長に現役復帰し、日露戦争に復職しました。

これが、その後の日本陸軍の不運の元になります。

 

日露戦争の陸戦は、

満州遼東半島がおもな戦場になりました。

黒木大将が率いる、日本陸軍の第一軍が、

鴨緑江岸でロシア軍を破った後、以後の陸軍の作戦は、

旅順軍港および、要塞を、無力化することに収斂しました。

日本海軍は、ロシアの旅順艦隊に決定的な打撃を与え、

旅順軍港の封鎖に成功しました。

あとは、要塞化した旅順を、陥落できるかどうかにかかっています。

 

奥保大将が率いる第二軍は、

旅順の南山のロシア陣地を攻撃しました。

第二軍は、この攻撃で、死傷者4000人もの被害を受け、

大本営を震撼させました。

その後、乃木大将が指揮する第三軍が、

旅順要塞の攻略をすすめます。

第三軍は、旅順要塞の守備に関して、ほとんど事前情報をもたず、

どの方面から攻撃をおこなうのかについても、参謀の意見が割れて、

司令部の方針は、なかなかまとまりませんでした。

しかし、ようやく、攻撃方針が決定し、

最初の総攻撃をおこないました。

 

総攻撃は、都合三回おこなわれています。

第一回総攻撃は、歩兵の突撃による強襲によるもので、

日本軍5000人、ロシア軍1500人の戦死者を出しましたが、

要塞の攻略は、かないませんでした。

その後、断続的に、局地的な戦いが続いたあと、

第二回総攻撃では、ふたたび突撃戦となり、

日本軍は、1000人の戦死者を出しました。

そして、第三回総攻撃でも、

乃木司令部は、203高地への突撃作戦に執着し、

戦死者5000人に達する、大被害を受けましたが、

この甚大な犠牲のもと、

ようやく、ロシア守備軍は降伏しました。

 

1905年1月、旅順要塞司令官ステッセリと、乃木希典は、

旅順近郊の水師営で会見し、お互いの武勇を称えあいました。

一連の旅順包囲戦で、日本側の戦死者は6万人に達しており、

乃木の2人の息子も戦死しています。

 

旅順包囲戦は、あまりにも苦い勝利でした。

日本軍は、近代戦における攻城戦の経験が浅く、

攻城戦において、

やみくもな突撃による白兵戦にこだわりました。

ロシア軍が、機関銃を大量配置していたことも知らず、

無数の兵士が、

ロシア軍のマキシム機関銃の十字砲火の犠牲となりました。

 

のちに、乃木希典は、明治天皇に殉じて、

自身も、乃木神社に神として祀られ、

忠臣の見本として、皇国史観の精神的支柱になったのですが、

わたしは、乃木の司令官としての才能は、

ほとんどなかったと考えています。

敵の武力や装備など、事前の調査をおこたり、

戦法については、やみくもな突撃を繰り返すだけで、

その結果、甚大な被害をもたらしたことについての、

無能、無作為ぶりについては、弁解の余地はないと思います。

 

司馬遼太郎の「要塞」では、

頑固に強襲攻撃の方針を捨てず、連日おびただしい死を累積する、

乃木や、伊地知参謀の姿を、

「無能というより狂人に近い」と記しています。

 

与謝野晶子は、旅順包囲軍に従軍した弟を思い、

1904年9月に、「君死にたまふことなかれ」を発表しました。

乃木希典が、この詩を読んだかどうかは、わかっていません。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。