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再評価されるべき暴君

よしをです。
紂王(帝辛)は、殷の最後の王で、周の武王に滅ぼされました。
帝辛は頭がよく、容姿に優れ、弁舌巧み、猛獣を倒すほどの力持ちでした。
そのように才能豊かでありながら、
帝辛は臣下を信じることなく、独善的で、神への祭礼をおろそかにし、
重税によって庶民の生活を苦しめました。
民衆の労働力を酷使して、鹿台という、巨大な楼閣群を建築し、
世界中から宝物や美女を集めました。
妾の妲己を溺愛し、日夜、宴会と乱交にふけるなど、
酒池肉林の享楽に溺れました。

殷に、箕子と比干という2人の賢人がいました。
箕子は、帝辛に贅沢三昧をやめるように諫言しましたが、
受け入れられなかったため、誅殺を恐れて狂人のふりをして逃れました。
比干は、炮烙(ほうらく)という残酷な刑罰をやめるように進言しますが、
帝辛の怒りを買ってしまいます。
「聖人の心臓には7つの穴が開いているという。それを見てやろう」。
比干は、心臓をえぐり取られて死んでしまいました。

やがて、天下の諸侯が、帝辛を倒すために集結すると、
殷軍は戦いに敗れ、鹿台の火災とともに、帝辛は焼死しました。
殷に代わって、周の武王が天下を治めました。

帝辛は、夏の桀王とともに、「夏桀殷紂」と呼ばれ、
暴君の代名詞となりました。
両者の人物像の描写は酷似しています。
美女や酒池肉林の宴会に耽溺して、政治を顧みず、
諫言する忠臣を殺し、最後には滅ぼされるという筋書きです。

中国では、つねに歴史の書き換えがおこなわれています。
このふたりの王の記述は、桀紂から王位を簒奪した殷や、
殷を亡ぼした周のプロパガンダによる歴史の上書きによって、
実際以上の暴君として、夏桀殷紂が描かれた証拠といえるでしょう。

殷や周では、
祭祀や軍事などの重要事項について、甲骨占卜をおこなわれました。
甲骨占卜を記した内容は、
「戦争をするが、神の助けが得られるか」、
「王が狩猟をするが、鹿を捕らえられるか」、
「夢に鬼が出たが、災厄があるだろうか」、
といった呪術的、あるいは禅問答のようなものでした。
占卜の結果によって、政策を実行していたといわれていますが、
実際には、占いを口実にした恣意的な解釈が可能で、
王の統治方針や権威を正当化するという一面があったのでしょう。

最近の甲骨文字の研究から、
帝辛は、頻繁に狩猟や領国の巡回、祭祀をしていたことがわかりました。
また、それまで続いていた人身御供を取りやめたのは、
帝辛だったことも、甲骨占卜の解読によって判明しています。

現在では、殷の滅亡の原因は、帝辛の個人的な悪行ではなく、
帝辛の即位7年目に発生した叛乱をきっかけに、
周に攻められたことであると考えられています。
わたしは、帝辛は、衰える国勢を、
必死に立て直そうとしていた、悲劇の王だったと考えています。
史書を鵜呑みにしてはいけないということです。


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