さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

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中内功の失敗

よしをです。
1957年、中内功氏は、
大阪市旭区千林商店街に、「主婦の店ダイエー」を開店し、
早くも翌年には、神戸市三宮に2店舗目をオープンしました。
食料品、医療品の価格破壊を展開し、
消費者から支持を得て、阪神地区を中心に店舗網を拡大し、
あっという間に全国展開を果たしました。

ダイエーは小売業以外にも、ホテルや大学、金融、プロ野球球団まで、
多角経営に乗り出しました。
百貨店の三越を抜いて、小売業売上首位に立ち、
1980年には、国内ではじめて小売業売上1兆円を達成しました。
中内氏は流通王の名を欲しいままにし、
経団連副会長として、財界の中心メンバーとして活躍しました。

ダイエーの勢いは、バブル崩壊とともに、一直線でマイナスに転じました。
経営不振に陥り、産業再生法が適用され、
丸紅やイオンの援助を受けましたが、往年の勢いを取り戻すことはなく、
経営破綻に追い込まれていきました。

中内氏のビジネスモデルは、
店舗進出のために土地を買い、地価上昇で担保価値を高めて、
その土地担保をもとに融資を受け、あらたな土地を入手して店舗を開く、
というサイクルで成り立っていました。
ところが、バブル崩壊によって、土地価格が下落し、
3兆円もの負債が返済不能に陥ってしまい、
まったく、身動きがとれなくなってしまったのです。

ダイエーは、会社更生法の適用を回避し、
経営規模を維持するために、産業再生機構に経営再生を委ねました。
負債を減らすために、不動産を処分して、
事業を縮小していけば、まだましだったのですが、
再生機構は、目の前の負債を減らすために、
好立地にある店舗の土地を次々と売却し、リースバック方式で、
店舗営業を継続させました。
これにより、確かに借金は減りましたが、
売上利益は、ほとんど家賃と相殺されてしまいました。
つまり、タダ働きのような状況が生まれたのです。

コンビニの店舗数は爆発的に増え、
衣料品では、ユニクロしまむらなどの専門店が人気を集めました。
また、ドラッグストアが店舗数を伸ばし、
医療品やトイレタリーだけでなく、食料品も扱うようになるなど、
バブル崩壊後の小売業の世界は、どんどん変質していました。

しかし、ダイエーは負債の整理で精いっぱいで、
小売業の変化に取り残されてしまいました。
その結果、消費者からは、
ダイエーは何でも売っているが、欲しいものは何もない」、
といわれるような状態になってしまいました。

2015年に、ダイエーイオングループの完全子会社となり、
店舗名からも、ダイエーブランドは完全に消滅しました。

ダイエー最盛期にあって、
中内氏は、ミシンメーカーの「リッカー」や「小山ゆうえんち」など、
頼まれるままに、異業種の事業を引き受けていきました。
唯一、1985年に倒産した三光汽船については、
管財人にという打診に対して、
「船を買って、何をするんですか!」、と役員全員が反対したため、
断念したといわれています
中内氏は、「何でも欲しい病」にとりつかれていたのでしょう。

不動産は、永遠の利潤を生む、打ち出の小づちではありませんでした。
しかし、あの時代、それに気が付いた人がいなかったのも事実であり、
飛ぶ鳥を落とす勢いの中内氏の失敗を予見できた人は、
誰もいませんでした。
数ある事業のうち、神戸に設立した、流通科学大学だけが、
中内氏が残したレガシーとなりました。


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。