さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

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みかんのルーツ

よしをです。

いつもぶらぶらしている与太郎に、

八百屋の主人が、かぼちゃを売る世話をしました。

「大きいのが13文、小さいのが12文が元値だから上をみて売るように」、

と教えて与太郎を送り出します。

路地裏に入った与太郎は、天秤棒がつかえて動けなくなり、

助けられた長屋の住人に値段をいうと、それは安いというので、

まとめて全部買ってもらいました。

 

八百屋の主人は、与太郎が全部売ってきたことに感心しますが、

元値で売ってしまったことを知って、

「掛値をしなくちゃいけない」といって、もう一度、与太郎を商いに出しました。

与太郎は、先ほどの場所に行き、買ったばかりだという長屋の住民に、

無理やり、かぼちゃを売りつけました。

 

与太郎がお目出たいのがわかって、住民が与太郎に年齢を尋ねると、

「今年、60になった」(与太郎

「見たところ、はたちそこそこじゃねえか」(長屋の住人)

「元がはたちで、40は掛値」(与太郎

 

落語「かぼちゃ屋」は、もとは上方の噺で、

大正時代に東京に持ち込まれたといわれています。

上方では、かぼちゃではなく、みかんを売る物語(「みかん屋」)でした。

なぜ、東京へ伝わる際に、みかんからかぼちゃに変わったのかといえば、

その当時、みかんは東京では高級品だったことがあります。

東京(江戸)の裏長屋で売り歩くには、

庶民的なかぼちゃのほうが、ふさわしいと考えたのでしょう。

 

みかんというのは、紀伊国屋文左衛門のみかん船にあるように、

江戸時代には、「下りもの」といわれ、高級品でした。

古い人に話を伺うと、昭和30年代半ばでも、東京と大阪では、

みかんに対する価値観が異なると感じたそうです。

 

江戸時代の高級品であったみかんは、「紀州みかん」といって、

われわれが普段目にする「温州みかん」とは別種の果物です。

紀州みかんは、温州みかんよりも歴史が古く、

「小みかん」ともいわれる小粒な品種で、

中国から熊本に渡来した小みかんが紀州に伝わって、

多く生産されるようになったことから、この名がつけられたそうです。

文左衛門が海路、江戸に運んだのも、この紀州みかんでした。

 

同時代に、温州みかんも栽培されていましたが、

あまり人気がありませんでした。

温州みかんの特徴は、実が大きくて皮が薄く、種がなく食べやすいことですが、

種なしの果実を食すと、子孫を残せないという俗説があることから、

敬遠されたのです。

 

時代は下がり、第二次大戦後、食糧難が落ち着くと、

各地で、温州みかんが盛んに栽培されるようになりました。

有田みかん、愛媛みかん、三ケ日みかんなど、

温暖な地域で、それぞれブランド化し、一般に普及していきました。

したがって、われわれが「みかん」という場合、温州みかんを指します。

 

温州みかんのルーツは諸説ありますが、

おそらく、紀州みかんと多種の交雑で生まれたものでしょう。

温州は、「おんしゅう」ではなく、「うんしゅう」と読みます。

中国の温州地域を起源にするという謳い文句から、そう呼ばれますが、

不覚にも、わたしは、数十年間も、「おんしゅう」と読み間違いしていました。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。