さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

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悲劇のエンジン

よしをです。

第二次大戦中、三菱が設計した零戦は、

優れた機動性により、緒戦では圧倒的な優位を保っていましたが、

防弾装備の不備や、急降下性能の弱点から、

次第に劣勢に立たされていきました。

当時の日本の戦闘機に搭載されていたエンジンは1000馬力クラスであり、

アメリカの強力な戦闘機に対抗する大出力エンジンが望まれていました。

 

中島飛行機が開発したエンジン「誉(ほまれ)」は、

零戦などに搭載されていた14気筒エンジン「栄(さかえ)」を

18気筒に強化して出力を向上させると同時に、軽量化を図りました。

アメリカのエンジンよりも一回り小さく、軽量であるも関わらず、

2000馬力を出せる、驚異的な高性能エンジンでした。

誉は昭和17年に生産を開始し、すぐに量産体制に入りました。

 

昭和19年6月、誉エンジンを搭載した高速偵察機「彩雲」は、

マリアナ沖のアメリカ機動部隊を偵察したおり、

グラマン戦闘機に襲われましたが、高速で振り切り、

昭和20年3月には、誉を搭載した「紫電改」部隊は、

最新鋭のグラマン戦闘機部隊と交戦し、圧倒的な強さを見せました。

戦後、紫電改アメリカに運ばれ、

アメリカ軍戦闘機と模擬空戦をおこなったところ、

第二次大戦中の最高傑作機とよばれたP51ムスタングを圧倒したという

記録があります。

 

その一方で、誉は高性能ゆえのトラブルが絶えませんでした。

ジェット燃料のない時代において、飛行機燃料はガソリンでした。

エンジンの排気量を大きくすると、

ガソリンを均一に燃焼させることが難しくなります。

ノッキングやバックファイアなどの不具合が生じやすくなり、

エンジンが高温になったり、ピストンの破損につながるのです。

 

また、戦況の悪化とともに、

鋼材や熟練工の不足、質の悪いガソリンという悪条件が重なって、

稼働率の低下や事故が増え、

誉は、本来の高性能を発揮できなくなっていきました。

 

戦後、中島飛行機はGHQによって解体されました。

誉を設計者した中川良一氏は、

戦後、プリンス自動車に入社し、名車スカイラインなどを設計しました。

昭和41年、プリンスが日産自動車と合併したとき、

当時の日産の川又社長は、「プリンスで最も欲しい人材は中川君だ」と、

話したといいます。

 

誉のエンジニアを担当していた百瀬晋六氏は、

戦後、富士自動車(現在の富士重工)に入社し、

リアエンジンバスや、スバル360などを設計しました。

かれの技術に対する姿勢や哲学は、「百瀬イズム」と呼ばれ、

富士重工の思想的財産として、受け継がれています。

 

もし、日本本土がドイツのように、ソ連軍に蹂躙されていたとしたら、

かれらのような有能な技術者は、丸ごと連行されていたでしょう。

右翼的とか神秘主義的だという勘違いをされたくないのですが、

戦後、幸いにも、優秀な頭脳を失うことがなかったのは、

日本が目に見えない力で守られている証拠なのだと確信しています。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。