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インドネシア義勇軍と日本人

よしをです。

1600年頃、東インド会社がジャワ島に進出し、

オランダ人によるインドネシアの植民地時代が始まりました。

1619年には、オランダ人はジャカルタを占領し、

この地をバタヴィアと名付けました。

 

20世紀になると、アジア全体で民族独立運動が盛んになりました。

1928年、この地域の独立を求める人びとは、

オランダ領東インドのあらたな国名に、「インドネシア」を採用しました。

その後、太平洋戦争の1942年に、日本軍の侵攻によって、

オランダの植民地支配は、あっけなく崩壊したのです。

 

オランダの植民地政庁は、

インドネシアに対して、愚民政策を採用していました。

これは、西欧列強の植民地政策の基本的な考え方なのですが、

現地人を教育すると、社会の矛盾を自覚して、

宗主国の支配に反抗すると考えていたのです。

しかし、日本の植民地経営は、オランダとは、まったく違っていました。

 

日本の軍政権下では、インドネシア人に対する融和政策がとられ、

その後のインドネシアの将来に、大きな影響を与えました。

日本は、独立運動家の指導者スカルノを開放し、

イスラム教に対する制約を撤廃し、義勇軍を組織して訓練し、

子どもの教育においては、オランダ語を廃止するとともに、日本語を教え、

道徳を教え、現地の歴史を教え、インドネシア語を教えました。

 

太平洋戦争終戦後、インドネシアには、再植民地化を実現するために、

イギリス軍とオランダ軍が侵攻してきました。

当時は多くの日本兵が現地に取り残されていましたが、

あるものは連合軍の捕虜になり、あるものは捕虜になることを選ばず、

ジャングルや村に潜伏しました。

 

オランダ軍と、蜂起したインドネシア義勇軍との戦いが始まりました。

この独立戦争には、残留日本兵も参戦しています。

のちに組織されたインドネシア日本人会の資料によると、

独立戦争に参戦した旧日本兵は約900人いました。

そのうち、530人が戦死もしくは行方不明となるなど、

激戦の様子を物語っています。

独立後は、生き残った日本兵324人がインドネシア国籍を取得し、

残りの45人が日本に帰国しました。

 

日本兵は、どうしてインドネシア独立戦争に加担したのでしょうか。

終戦当時、現地は混乱していました。

連合軍の捕虜となった日本兵は一旦、武装解放されて収容されましたが、

オランダ軍から武器を渡されると、独立義勇軍と対峙させられました。

アジアの解放を目指していた日本軍将兵にとって、

連合軍の走狗となり、義勇軍インドネシア民衆を苦しめることは、

慙愧に絶えず、屈辱に感じたことでしょう。

かれらの一部は、オランダ軍から脱走して、義勇軍に加わりました。

 

連合軍の捕虜にならずに、武装を解かず、潜伏していた日本兵もいました。

輸送船は不足しており、日本への帰国が容易でなかったことに加えて、

もし捕虜となれば、連合軍キャンプに収容され、

強制労働に従事させられるといったニセ情報にも惑わされ、

帰国を断念し、あるいは、敗戦して荒廃した祖国の将来を悲観して、

あるいはインドネシア独立を勝ち取るロマンのため、

900名の残留日本兵が、インドネシア義勇軍に加わったのです。

 

歴史を美化するつもりはありません。

ただ、歴史上の事実として、

インドネシアの独立に、日本人が多く関わっていることについて、

現地の人びとが、その記憶を深く留めており、

日本や日本人に対する親近感を抱いてくれているにも関わらず、

われわれ日本人自身が、あまりに無知であることが、

残念でならないのです。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。